第4話 2人の兄



「美朧、また磯貝を泣かせてるのか」



 飽きれたようなそんな声に顔を上げると、渡殿の先に参内着である真っ黒な束帯そくたいに身を包んだ長兄、誠信さねのぶの姿が見えた。


 御簾みす越しのため表情はよく見えないが、どんな顔をしているかなんて容易に想像できる。



「お兄様…。

違うのです。美朧はただ…!」


「言い訳はよい。どうせいつものことだろう」


 女房が御簾を上げ、高座のしとねを敷き直す。誠信はそこにどしりと胡座をかくと、なぜか、茵を運んできた女房に、何やら意味深な笑みを送った。すると女房は誠信の笑みに頬を染め、嬉しそうに礼をして下がっていった。



――まったく、この人は…。私の女房にまで手を出していたなんて。


 この家の家長である誠信は、困ったことに、都でも有名な遊び人。若い頃から、やれ儀式だやれ行事だと毎晩出かけて行っては、その後の宴で酔っ払い、どこぞの姫君と一夜を共にし…まったく帰って気やしない。



――本当、次兄の斉信ただのぶお兄様とは大違い。




「お兄様がこちらに寄られるなんて珍しいですね」


 そんな長兄に呆れつつも、気を取り直してそう続ける。


 誠信は現在別邸に住んでいて、美朧が父から譲り受けた本邸鷹司たかつかさ殿には滅多に顔を出さない。そんな長兄が束帯姿でここに来るなんて珍しい。



「それに、まだ束帯姿とは…。

こんな時間に帰宅なされるなんて、お忙しいんですね」


「あぁ。実はな、帰り掛けに道隆様に呼び止められてな。立ち話はなんだからと東三条ひがしさんじょう殿に呼ばれていたんだよ」


 東三条殿とは、代々“藤原”の氏長者を務めた者達が受け継いで来た、格式高い屋敷のこと。


「道隆様に…」


 藤原道隆。現 中宮の父で、今まさに、関白として政の頂点に立っている人物だ。


「なるほど。…それで、その道隆様とのお話と私と何か関係が?」


 窮屈な束帯が嫌いな誠信がまだ束帯姿でいるということは、自邸にも寄らずここへやって来たということ。きっと何か、私に急ぎ伝えたいことでもあるのだろう。



「さすが我が妹、話が早い。実はな、この鷹司殿で月の宴を催し、道隆様をお招きすることになったのだ」


 誠信は、機嫌良さそうにそう言うと、持っていたしゃくを軽やかに脇息きょうそくに打ち付けた。



「鷹司殿で宴を…?それに、道隆様もお招きすると」


 美朧は誠信の言葉に思わず目を瞬かせる。



「あぁ。世は、関白家の時代だ。

 忯子ししを亡くし、花山かざん帝が落飾、譲位じょういされ…ついに父上も亡くなられた今、我が家も生き残りをかけて動き出さねばならぬ」


 誠信は、一瞬悲しげに目を伏せた後、覚悟を決めるように唇をきつく結んだ。



 確かに今、“先の太政大臣家”であるこの家は、危機に瀕していた。


 先帝である花山院の女御であった姉の忯子が亡くなったことから始まり、それを嘆いた花山院が悲しみに暮れ、そのまま落飾、退位し…


 そして、すべての希望を背負っていた忯子が亡くなったことに絶望した父 為光も倒れ…そのまま亡くなってしまったのだ。



――あれからもう三年…。


 帝の外戚という我が家の栄華は、今や現中宮 定子様のお父君、道隆様率いる関白家のものとなってしまった。


 太政大臣まで登り詰めた父亡き今、我が家が生き残っていくためには、関白家との繋がりを強くするしかない。




「しかしお兄様、道隆様がいらっしゃることと、私と何か関係が?」


 邸で宴が開かれたとしても、御簾越しにしか様子を伺うことができない美朧にわざわざそのことを伝えに来た意図が分からない。



「いい問いだ。時に美朧、家と家とのつながりを深める最良の手段が何か分かるか?」


 誠信の言葉の意味が分からず、首を傾げる。



「わかりません。何ですか?」


「それはだな…」


 身を乗り出して説明しようとする誠信に、同じように身を乗り出し聞き入っていると…。




「――兄上、やはりこちらにいらっしゃると思いました」


 低く穏やかな声が、誠信の声を制した。



斉信ただのぶお兄様!おかえりなさいませ」


 簀子すのこに立つ、次兄の姿に一気に顔が綻ぶ。長兄 誠信と同じく参内の際に着る束帯姿の斉信ただのぶ


 彼も普段は別邸に住んでいるため、会うのは久しぶりだ。



「美朧、ただいま。磯貝に聞いたよ。妖から女房を庇って、熱い汁を被ったんだって?」


 斉信は、美朧の妖話を信じているのかいないのか、愉しそうにそう言って笑った。



「もう、磯貝ったら口が軽い…」


 妖のことはまだしも、女房に倒れかかって汁を被ったことは誠信に知られたくなかった。



「火傷はしてないかい?」


「してないわ。あんまり熱くなかったもの…」


 二人の兄にことの顛末を知られた罰の悪さに、声が尻すぼみになる。


「それはよかった」


 斉信はそんな美朧の様子がおかしかったのか、くつくつと声を出して笑っている。


「もう!」


 頬を膨らまし子供のようにふて腐れながらも、ふと、楽しそうな斉信に視線を向ける。



 小さな顔に、すらりとした背格好。蝋のような色白の肌に、大和絵の貴公子のような優雅な美貌。武官として名の知れた人なのに、文雅にも秀でていて…。いつ見ても完璧な人だ。


 蔵人頭くろうどのとうとなった今も、「近衛大将のように凛々しい」と、ますます宮中の女性を魅了してやまない自慢の兄なのだ。




「おいおい、お前達、私のことを忘れていないか?」


 先程まで揶揄われてふて腐れていたはずなのに、いつのまにかうっとりと斉信を見つめている美朧に、誠信の呆れた声が飛ぶ。



「すみません、すっかり忘れていました」


 片や遊び人の長兄に現実に引き戻され、少し不機嫌な返答になってしまう。


「なぜ同じ兄なのに、斉信と扱いが違う…」


 ぶつぶつと何かを呟く誠信を横目に、斉信の方へ体を向ける。



「道隆様が我が邸にいらっしゃるとお聞きしたのですが、私に何かお手伝いできることがあるのですか?」


 何か次兄の役に立てることがないかと、そう問いかける。



「ちょっと待て美朧、その話を持ってきたのは私だ!」


 誠信は今にも地団駄を踏みそうな勢いでそう叫んだ。


「兄上、落ち着いてください。美朧、兄上のお気持ちも考えなさい」


 そんな次兄の言葉にしょうがなく、長兄の方へ体の向きを戻す。



「ごめんなさい…。それで、家と家との繋がりを深める最良の手段とは?」


 先程の会話を思い出しそう問いかける。



「あぁ、それはだな…」


 誠信は大袈裟にごくりと唾を一飲みすると、ゆっくりと言葉を続けた。



「美朧、お前と関白家のご子息のどなたかとの縁談を取り成していただけるよう、道隆様に申し出ようと思っているんだ」


 誠信の言葉に、思考が止まる。



――縁談…。


 あまりに驚きすぎて言葉が出ないとはまさにこのこと。固まって動かない美朧に、誠信はさらに言葉を続ける。



「お前もそろそろ結婚を考えなければならない歳になるし、いい機会だろう。それに道隆様に似て、ご子息も皆、見目麗しい方々と聞く。将来安泰、容姿端麗ならお前も文句はないだろう」


 一人でべらべらと話し続ける誠信の言葉に、思考が遠退いていく。



――結婚?私が?



 確かに、美朧が成人の儀である“裳着もぎ”を済ませてから、三年の時が経っていた。父為光が亡くなってから、たくさん舞い込んでいたはずの縁談話もぱたりと途切れてしまっていた。



――まさか私、もうすでに“行き遅れ”というものに片足を突っ込んでしまっているのかしら。



 ふと不安になり斉信に助けを求めるように視線を向ける。 



「兄上、私はそんなに焦らなくてもいいと思っています。美朧は我が家の大事な姫。美姫と名高かった姉上達にも引けを取らない美貌と才がある。それに、関白家の栄華だっていつまで続くかわからない」


「斉信!言葉を慎め」


 斉信の言葉を、焦ったように制す誠信。



「兄上、事実でしょう。確かに道隆様は今、間違いなく政の頂点にあられるお方。しかし、嫡男の伊周これちか殿を推すあまり、関白家に逆風が吹き始めているのもまた事実」


 斉信はそう言って目を細めた。



「確かに、斉信の言う通りだ。しかし、すでに伊周殿はあの若さで内大臣にまでなられた。私はこれからも関白家が栄華を築いて行くと思うんだがな…」


 誠信は難しい顔をすると、持っていた笏を反対の手の平に打ち付けた。



「とにかく美朧、宴の席は道隆様のご子息でなくとも、どなたかに見染められる絶好の機会だ。美しく着飾り、琴の音の一つでも聴かせてやれ」



――見染められる機会か…。そうね。




「…承知しました」


 不服そうにしつつもそれ以上口を開かず、黙り込む斉信を横目に、美朧は誠信にそう返事をしたのだった。

 


 

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