第3話 妖に好かれた姫



先の太政大臣、藤原為光邸

―――――――…



 日が傾き出した頃、美朧みほろ夕餉ゆうげの支度に忙しい女房にょうぼう達の様子をぼんやりと眺めていた。広い簀子すのこの上を色鮮やかなうちぎに身を包んだ女房達が忙しなく行き交って行く。


 すると、何やら緑色の物体が女房達の足元をくるくると回りながら擦り抜けて行くのが見えた。


 細い手足に、人参のような体。頭に響く様なキーキーとうるさい高音の声。ギョロリと飛び出た目が特徴的な小さな顔の少し上、おでこを覆うように猿のお面をつけている。



「このイタズラ妖怪め…」


――コイツは恐らく、ひょうりという小妖怪ね。


 何か悪さをするのではと顔を顰め、ひょうりを目で追っていると、汁物を運ぶ女房を見てニシシと何かを企んだような笑みを浮かべた一匹が、彼女の足に絡みついた。


「あ、こら!」


 慌てた美朧は、ひょうりを掴もうと手を伸ばす。すると、それに気づいたのか、またもニシシと嫌らしい笑みを浮かべたと思ったら、くるりと体を翻し、手元をすり抜けた。


 そうして、掴む物をなくし体制を崩した私は、そのまま汁物を運ぶ女房に突っ込んだ。


――…ガシャン。



「姫様!」


 物が崩れる大きな音ともに、一番上に羽織っていた小袿こうちきの裾からはみ出た腕に熱い汁がかかった。


「あつっ…」


「当たり前にございます!」


 幼い頃からそばで仕えている女房磯貝いそがいのそんな言葉に思わず身を縮める。磯貝は火傷の跡が残らないようにと、冷水につけた布で美朧の手元を丁寧に拭いていく。



「全く…。裳着もぎを済ませた姫君とは思えませぬ」


「ごめんなさい…」


 拭きながらため息を吐く磯貝に申し訳ない気分になり、思わずそう言葉を漏らした。


「慣れておりますよ。まったく、誠に妾のようなお方じゃ…。いつになったら立派な姫君になられるのか」


 そう呟き遠い目をする磯貝にさらに身を縮める。


「磯貝、きっと言っても信じてくれないと思うけど、今ひょうりがいたのよ!それで、女房の足を引っ掛けて転ばせようとしていたから…」


 本当のことなのに、この後の磯貝の反応がわかっているから、何だかいたずらがバレた子供のような言い方になってしまう。


「はぁ…またあやかしですか。このおやしきに勤めて三十年。いつお暇をいただいてもよい歳となりましたが、姫様のことだけが心残りで…。

 それなのに、当の姫様はいつまでも妖妖と、箏のお稽古もなさらない。磯貝は姫様のことが、美朧みほろ姫様のことが、心配で、心配で…」


 磯貝はしわの刻まれた顔を悲しそうに歪め、わざとらしく涙を拭うふりをする。



「あぁ、磯貝は悲しゅうございます…」


 ふりをしていたと思ったら、本当に涙が出てきたようで、終いには、おいおいと声を出して泣き出した。


「はぁ…。」


――こうなると思った。


 幼い頃から妖の姿を見ることができた美朧は、妖にいたずらをされては、こうやって磯貝にお説教され、終いには早く良き姫となれと泣きながら諭されてきたのだった。




 そんな美朧の正式な名は、先の太政大臣の三の姫、藤原朧子ふじわらの ろうし。美朧は、古臭くて響きが殿方みたいななこの名前が嫌いだった。それを知る人達は、朧子ろうしではなく、彼女を“美朧みほろ”と呼んだ。


 父はかの有名な藤原兼家かねいえ公の弟であり、現関白 道隆みちたかの叔父にあたる藤原為光。


 穏やかで家族思いな人物だったが、三年前、病で他界していた。

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