31-5 赤い夜を越えて

 雅久は上り坂を必死に駆け上がる。背後からはイザナミの叫び声が迫ってきていた。宗一郎たちはイザナミにやられてしまったのだろうか、と悔しさに歯を食い縛った。追いつかれてしまえば、今度こそ最後だ。もうイザナミから逃れる機会など訪れないまま殺されてしまうだろう。

 前方に白い光が見えた。いつの間にか夜が明けている。雅久は残った力を振り絞り必死に足を動かした。


『もう少しよ! 頑張って!』


 雛夜の焦りが滲んだ声がして、雅久は口元に小さく笑みを浮かべた。雅久自身よりも焦っている様子の雛夜が可笑しく思えた。

 この一夜で幾度も聞いた凶悪な破裂音が響く。雷撃が襲いかかってくる音だ。雅久は振り返らずに走り続けた。雷が身体を貫くのが先か、黄泉の国から抜け出すのが先か――。人間の足で雷の速度に勝つことは不可能だろう。状況は絶望的だ。雅久の胸に諦観が滲んだその時、雅久の胸から光が溢れた。同時に背後から襲いかかる気配に気づきバッと振り向くと、雷撃を纏った蛇の牙が迫っていた。防ぐことも出来ずきつく目を瞑ると、ドシンッと何かが落ちる音がし地面を揺らす。


「い、岩……!?」


 雅久を守るように、岩壁が雅久の前にそびえていた。岩壁の向こうで苦しげな叫び声が轟く。


「雅久ーッ!」

「未咲!」


 光が滲む先から、未咲の声が聞こえた。雅久は即座に地面を蹴り、光に向かって駆ける。直後、岩壁が破壊された音が聞こえ、人とも獣とも取れないおぞましい絶叫が洞窟を震わせ砂礫されきが降ってくる。

 徐々に近づく未咲が手を伸ばした。雅久は足にぐっと力を込め、未咲を庇うように飛び込んでいく。未咲を抱き締めそのまま地面に倒れこんだ時、耳元で未咲の驚いた声が聞こえた。太陽に光が目を突き刺し、雅久は唸り声を上げてぎゅっと目を瞑った。


「いやはや。おぬしらには驚かされるばかりじゃな」


 雅久と未咲の頭上から、場にそぐわない呆れたような声が降ってくる。次いで、再びドシンッと重石でも落ちたような音が響き、倒れ込んだ地面から震動が伝わった。


「え……何? え?」


 未咲の困惑した声が雅久の耳をくすぐる。途端に雅久は訳もわからない可笑さが込み上がり、はは、声を漏らして笑った。倒れたままの身体を起こし空を仰ぐと、清々しい青空を背景に胡座を掻いて浮かんでいる大山祇神が得意げな顔をしていた。


「この因縁には……手を出さないのでは?」

「何のことかわからぬのう。儂はぽっかりと空いた穴を塞いだだけじゃ」


 大山祇神おおやまずみのかみは顎を撫でてにやりと笑った。雅久は身体を捻り黄泉の国の入り口だった場所を見る。そこには御神木の背丈と変わらない大岩が御神木に取って代わって聳えていた。影絵のようだった御神木は残骸もなく姿を消している。

 雅久は未咲の方へ向き直ると、仰向けに倒れたままの未咲が目を丸くしていた。再び腹の底から笑いが込み上がってきて肩を震わせる。未咲は驚いたように短く声を上げ、ボッと頬を赤く染めた。


「笑いすぎじゃないかな!」

「す、すまない」


 雅久は苦笑を浮かべ、恥ずかしそうに眉根を寄せて可愛らしく怒る未咲を助け起こした。未咲もまた黄泉の国の入り口を塞いだ大岩を目に入れると呆気に取られ、あんぐりと口を開けた。そんな彼女の傍へ、すっかり雨や泥で汚れてしまった真神がやってくる。


「真神……」


 未咲は呆けたまま真神を見つめ、それから勢いよく真神の首に抱きついた。


「ありがとう」


 疲れを滲ませていても嬉しそうに目を細める真神と真神を強く抱き締める未咲を見て、雅久は心の底から安堵した。未だ現実味を帯びないが、恐ろしい赤い月の晩が終わったのだと太陽の光が煌々と伝えてくれる。

 雅久は自身の両手のひらを見つめた。土がこびりつき、所々赤が混ざっている。小刻みに震えている腕は暫く使い物になりそうにない。そういえば、先ほど未咲を起こした時、未咲もまた震えているようだった。恐怖の余韻か、それとも緊張の糸が切れたからか。どちらにせよ、すべて終わったのだ。

 雅久は腕を広げて仰向けに身体を倒した。薄水色の空を鳶が横切っていく。空に浮かんでいた大山祇神が呆れた表情で雅久の傍へ降りた。


「よく頑張ったな、雅久」


 慈愛に満ちた瞳と声が、まるで父親のようだと感じた。雅久はじわりと滲む涙を抑えることが出来なかった。肌の上を流れる生温かい感触が、自分は生きているのだと伝えてくる。雅久は眉尻を下げ唇を噛んだ。


「ありがとう、ございました」


 震える声で礼を言えば、大山祇神は眩しそうに目を細める。何のことやら、ととぼける大山祇神は、他のどんな神よりも素晴らしい神なのだと雅久は思った。黄泉の国から出る直前でイザナミの攻撃から雅久を守った岩壁は、間違いなく大山祇神から賜った加護の力だった。黄泉の国の入り口を塞ぐことも、未咲や雅久だけでは出来なかったかもしれない。「この因縁には関わらない」と明言していたというのに、いざというときに手を差し伸べてくれる優しさ。それは雅久が大山祇神と出会った頃と何ら変わらないあたたかく頼もしいものだった。

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