31-4 送別

 背中で未咲の悲鳴のような呼び声を聞き、雅久は口元に小さく笑みを浮かべた。こんな時に笑うなんてどうかしている。けれど、自分がイザナミを足止めさえすれば、確実に未咲は助かるだろうと思った。真神ならば、未咲を無事に現世へと連れ出すことが出来る。雅久は真神を信頼していた。

 未咲と二人で真神に乗る手もあった。しかし、それでは隙が出来る。ほんのわずかな隙でも、イザナミの前では命取りになると踏んだのだ。


 イザナミの姿を改めて認めると、その容貌は全身が凍り付くようにおぞましく、両手も、髪も、下半身も、すべてが雷を纏う凶暴な蛇であることにぞっとする。

 先ほどまで未咲が防いでくれていた雷撃を雅久は紙一重で避けた。今は何とか掠める程度で済んでいるが、集中力が途切れ、それまで自覚していなかった疲労感が身体にのしかかってきている。刀を握る力が残っているかも危うい。視界はぼやけ、手の感覚は消えかかっていた。


 ここで死ぬのだろうか。そんな予感が脳裏を過ぎる。だというのに、不思議と心は迫る死にざわつくこともなく凪いでいた。受け入れているのかもしれない。果てない時を経て愛した人を守るために死することを。死ぬことも、生きることさえも頭に描けなかった自分が、こうして心から守りたいと思った人を守って死ぬ。それは本望だと思った。


 ――本当に?


 未咲の悲哀に満ちた表情が思い浮かんだ。直後、イザナミの蛇の腕が眼前に迫る。身をらせ避けると蛇の牙が鼻頭を掠めた。一歩足を下げた時、固い感触が雅久の身体を絡め取る。骸骨か、と雅久を身をよじろうとした刹那、イザナミの追撃が酷くゆっくりと雅久の視界に映った。


 生きたい。

 今さら、そう思った。


 力の入らなくなった手から刀が滑り落ちる。いつかはやってくるだろうかと思っていた死は、あまりに呆気ない。生きたいと欲を持ったせいだろうか。それとも、鬼神の生贄となって長く生きるのみで、村から脅威を取り除けはしなかった無力さへの罰か――。雛夜が雅久を呼ぶ声が何処か遠くで響く。雅久は顔を歪め目を瞑った。その身を託してくれた雛夜や亡霊たちと一緒に生きようと約束をして、果たせることなく消えてしまうのか。けれど、せめて未咲だけでも、生きてくれれば、それで――。


『これ、借りるぞ!』


 耳元で威勢の良い青年の声がした。途端に雅久の身体が解放され一気に軽くなる。雅久は驚きに目を見開き、雅久の懐から月の簪を抜き取った青年の背中を見た。そして、視界に飛び込んできた光景にさらに目を瞠った。

 イザナミの身体を、雅久や未咲たちを襲っていたはずの無数の骸骨と醜女が取り押さえている。しかし、イザナミは彼らをものともせず、振り払うために身体を大きく捩り、全身に雷を纏う。――だが、それがわずかな隙となった。


『あ、あの子……!』


 雛夜の驚愕を滲ませた声が聞こえた。しかし、雅久はその声に反応出来ないまま、目の前の光景に見入った。簪を持った青年が、簪をイザナミに振り下ろす。その瞬間、簪が蒼白い光を放った。ああ、あれは間違いなく、未咲の力だ。

 イザナミは身体の底から喉を切り裂くような絶叫を上げた。雅久は思わず顔を歪める。と、左肩にあたたかく柔らかな何かが触れた。パッと顔を向けると、そこには微笑を浮かべる老女がいた。優しさと慈愛を湛えた表情に、雅久は息を呑んだ。


「澄子……?」


 雅久の声に応えるように笑みを深めた老女には、遠い記憶に残っている澄子の面影があった。澄子の隣に、老爺が現れる。澄子を愛し、守り、澄子とともに世界を渡った村の男だとすぐにわかった。二人とも顔が蒼白く所々腐りかけているように見えた。それでも、生前の優しさや穏やかさを滲ませたあたたかな表情に変わりはない。


『あなたは無力じゃない。……あれが、その証拠だわ。彼らは雅久が今まで守ってきた村の人たちよ』


 雅久の心の内を読んだように言う澄子に、雅久は息を呑んだ。澄子は目を細めて微笑む。

 

『あの子をお願いね、雅久』

『……よろしく頼む』


 二人の声が雅久の頭に響く。ああ、彼らはこんな声だったな、と懐かしさが胸に広がった。二人とも未咲への愛しさを声に乗せて、雅久への信頼を滲ませて。

 彼らは雅久が頷いたのを見ると、イザナミの方へと向かっていく。


『胸を張って、あるべき場所へ帰りなさい』


 澄子の声が雅久の背中を押す。雅久が逡巡すると、イザナミに簪を突き刺した青年が振り返った。緊迫した状況だと言うのに、暗闇を払うような朗らかな笑顔を浮かべ、雅久に向かって手を振った。


『未咲のこと頼むぞ! 雅久!』


 青年の声はやけに明瞭に耳に届く。青年の顔もまた、澄子たちと同じように腐りかけているようだった。しかし、雅久は気にも留めずに青年と目を合わせ、微笑を浮かべた。


「任せろ。……宗一郎」


 何故だか、雅久には彼が未咲から話を聞いていた宗一郎だとわかった。

 宗一郎は腐りかけの自身の姿に少しも怯まず、笑顔さえ見せた雅久に目をみはり、やがて穏やかに微笑んだ。


『俺、生きてたらお前と友達になりたかったな』

「ああ。友達になろう、宗一郎」

『……おう。またな、雅久!』


 これから何度でも会えると思わせるような、明るい別れだった。いや、何度でも会いに行こう。雅久は宗一郎に手を振り、心に決めた。正芳にも、澄子たちにも、今し方友人になってくれた宗一郎にも。記憶の中で、何度でも。

 雅久は身をひるがえし走り出す。背中には、激昂するイザナミを食い止める音が響いていた。

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