31-2 深淵

 洞窟内に断末魔が響き渡り、未咲の耳をつんざく。腐敗が進んでいた月夜見の肌はみるみるうちに干からびていき、ひび割れた皮膚がぼろぼろと剥がれ落ちた。未咲は浅い息を繰り返す。

 絶叫に震えていた洞窟に静寂が訪れたその時、月夜見の背後に潜んでいた闇から、ずずず……と低い音が響いた。月夜見が怨念に満ちた目をぎょろりと背後に向けた瞬間、未咲の視界から月夜見が消えた。


「おのれ……おのれぇえ……」


 地を這うような低い月夜見の声が未咲の耳にねっとりとまとわりつく。未咲は目に映る光景に絶句した。


「あ、ああ」


 未咲は無意識のうちに後ずさった。


 月夜見が、闇に食べられている。


 いや、正しくは人間と大蛇が融合したような怪異が、その身体に月夜見を取り込んでいる。既に右半身を吸収された月夜見の目は、最後まで未咲への怨みを宿し、未咲を睨んだまま――跡形もなく消えた。

 まるでギリシア神話のメドゥーサのようだ。未咲は震える両手で口元を抑えた。この怪異が、いや、彼女が、イザナミに違いない。月夜見が言っていたイザナミが、月夜見を喰らったのだ。

 逃げなくては。未咲はごくりと喉を鳴らし、一歩、また一歩と今度は確かに意思を持って後退する。

 張り詰めた空気が未咲の肌を突き刺す。たらり、と額から汗が伝った。にいぃぃ……とイザナミの口がゆっくりと弧を描く。暗闇だと言うのに、唇を捲り上げ剥き出しになっている鋭い牙が鈍く光った。


「……あの男も、あの男の子供も、一人残らず殺してくれる……」


 底冷えするような声が未咲の身体を芯から震わせた。「あの男」とは、恐らくイザナギのことだろう。未咲はイザナミと関わりのある男と言えばイザナギくらいしか知らない。それに、イザナギはイザナミに「毎日千人殺す」と言わしめた男神だ。そしてイザナギの子供とは、自信はないけれど、天照大神あまてらすおおみかみと月夜見、素戔嗚尊すさのおのみことのことだろう。確かその三柱みはしらは、イザナギが黄泉の国から戻った直後にイザナギの身体から生まれた神であった筈だ。

 イザナギだけでなく、その子供までもが怨みの対象とは。それに、その三柱を殺すということはこの世界そのものを滅ぼすのと同義だ。素戔嗚尊とはともかくとして、天照大神と月夜見は太陽と月。あらゆる生命が活動するには必要不可欠な存在だ。それを殺すとはつまり……そういうことなのだ。


 このままでは、わたしも殺されてしまう。そして、夜や生命を司る月神が消えて、その先は――。


 バチッと破裂音とともに一瞬洞窟内が白く照らされた。未咲は弾かれたように身を翻し地面を蹴った。背後から怒号が響き渡りビリビリと空気を震わせた。思わず足を止めそうになる自分を叱咤し、未咲は上から降ってくる砂礫されきに顔をしかめながらひたすらに走る。


 攻撃した方が良いのか。でもそれがイザナミを刺激して、瞬く間にわたしがやられてしまうことにならないか。この洞窟は崩れないのか。突然岩石が崩れ落ちて潰れてしまわないか。


 ぐるぐると頭を駆け巡る考えに焦燥感が全身を焦がし、未咲はイザナミから放たれる雷撃を水の壁を作って防ぐことしか出来なかった。いや、急ごしらえにしては上々だ! 未咲は自身を鼓舞し無理矢理にでも足を動かし続ける。

 本当は、足に鎖のように絡みついてくる恐怖が今にも未咲の身体を地面に叩き付けそうだった。それでも止まるわけにはいかない。奪われる寸前だった身体、永遠の眠りに就かされるところだった魂を取り戻し、結果的にそれは月夜見の役目を奪うことに繋がり――人間として生きてきた未咲には過ぎた役目だと思ったけれど、それでもその役目を背負う覚悟を決めた。その直後イザナミに命を奪われることとなっては、決めた覚悟がすべて無駄になる。未咲の両肩にかかった命は、今や文字通り、数え切れない。

 そして、これまで関わってきたすべての大切な人たちにも、顔向けができない。脳裏に彼らの顔が過ぎり、泣きたくなるほどあたたかな記憶が未咲の胸に熱を灯す。

 その直後だった。


「あ……!?」


 突如目の前に現れた黒い影が未咲に飛びかかり、未咲は地面に背中を打ち付けた。ガンッと頭に痛みが走り、視界がチカチカと白んだ。鈍い痛みに呻き声を上げながら、ぼやけた視界で黒い影を捉える。

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