30-5 元凶

「もう少しで会える」


 噛みしめるような月夜見の言葉が未咲の耳に届いた。未咲は泣きそうな気持ちになりながら月夜見を見遣る。どんなに残酷な神であっても、月夜見が男を愛し、死んだ男ともう一度生きることを切望しているのは確かであるとその声が証明していた。そんな感情は微塵みじんも見せないでほしかった、と未咲は思った。最初から最後まで残酷で無慈悲な神でいてくれたなら、男への情を感じさせないでいてくれたなら、きっとわたしはわずかな迷いもなく月夜見を糾弾して、月夜見からわたしの身体を奪い返すことが出来たのに。


 すべての因縁は「愛」から始まった。誰かを愛することが誰かを殺すことになるだなんて、誰が想像しただろう。少なくとも、未咲はこの世界に来るまで誰かへの愛が罪になるなんて考えたことがなかった。

 けれど、既に罪は生まれてしまった。愛情が愛憎へと変貌する姿を見てしまった。

 未咲は瞼を下ろし、静かに深呼吸した。


「雛夜さんのこと、憶えてる?」


 未咲は月夜見に訊ねた。質問というより、確認だった。どうせお前は憶えていないだろうと、諦めにも似た確信を持って。


「何のことだ」


 月夜見はいぶかしげに返した。不快さを隠そうともしないその表情に、未咲は自嘲気味に小さな笑みを漏らす。


「あなたが子供もろとも殺し、あなたを殺した女性だよ」


 月夜見は眉間に皺を刻んだ。


「雛夜……ああ、そういえばそんな名前だったか。あのヨリマシは」


 少し考え込み、すぐさま眉間の皺を解いて興味のなさそうに言う月夜見が憎い。何の期待もしていなかった筈なのに、未咲は胸がぎゅっと掴まれるように痛んだ。月夜見にとって、雛夜は取るに足らない存在ということなのか。雛夜は月夜見の所業にあんなに苦しんで、悲しんで、鬼になるほど憎悪したというのに。


「愚かな女だったな」


 ぴくり、と未咲の指先が動く。月夜見はその様子を嘲笑った。


「何だ、あの女に情でも移ったか。……そういえば、お前だったか。あの女に憑いていたのは」


 は、と未咲は短く声を漏らした。


「我が血族でありながらあの女に情を持つとは。嘆かわしいことよ。あの女は愚かにもイザナミや怨霊どもに魂を明け渡し鬼となった女だ。我の身体を奪い、子孫を殺し、異界へと逃げた者もこうして連れ戻し殺そうとしている。その女に、同情するか」

「連れ戻したのはあなたでしょ?」


 月夜見の眉がかすかに動いた。


「最初におばあちゃんを異界に飛ばしたのも、成長したおばあちゃんを異界に連れ戻したのも、あなたでしょ。でも、おばあちゃんはあなたの魂を入れるだけの力がなかった。だから、鬼に殺される前に異界へと戻した。そして、力を受け継いだわたしが生まれて、今度はわたしをここに連れてきた」

「――どうやら馬鹿ではないらしいな」


 月夜見は目を細めて口の端を持ち上げる。未咲は胃に焼石を詰め込まれたような心地だった。どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのだろう。水面下で子孫をコントールして、ただ「愛した男を生き返らせ再びともに生きる」ために利用している。


「……それで、わたしの覚醒と黄泉の国の扉が開かれる瞬間が、たまたま、噛み合っちゃったんだ?」


 月夜見は口元に笑みを浮かべたまま何も答えなかった。未咲は確信する。黄泉の国へと入ることが出来るこの機会でさえも、月夜見の計算の内であったのだと。けれど確かに、少し考えればわかる。イザナミが月夜見を殺す機会をずっと窺っていたというのならば、未咲の覚醒とともに濃くなる月夜見の気配を、イザナミが見逃す筈はない。計算も何も、必然と言ってもいいかもしれない。

 未咲は目を伏せ、ふーっと息を長く吐き出した。

 今、わたしたちは黄泉の国にいる。もしかしたら、それはわたしにとって幸運なことかもしれない。

 未咲は鋭い光を目に宿し、月夜見を見据えた。


「最低だ。……あんたが、一番汚い」


 月夜見の頬がぴくりと引き攣る。


「我の子孫だからと大目に見てやっていれば、調子づいたか。この月夜見を、“汚い”と言ったのか」

「そうだよ。あんたがこの世で一番醜いんだって言ったの」

「貴様……」


 最早殺気を隠さずに月夜見は未咲を睨み付けた。ビリビリと空気が震え、未咲の肌を容赦なく突き刺してくる。それでも未咲は怯まずに月夜見を睨み返した。


「貴様はわずかな慈悲さえもいらぬと見える」

「いらない。そんなものもらったって、気持ち悪くて仕方ないもの」


 未咲は左手で月愛珠をぎゅっと掴み、右手で太陽の簪を握り締めた。


「『わたし』は絶対に渡さない。『わたし』はわたしだけのものだから。死んだって、あんたなんかに渡すもんか!」


 未咲の左手から眩い光が溢れ出す。


「貴様、余程死に急ぎたいか。――ッ!?」


 未咲へ力を振るおうと手を動かそうとした月夜見は余裕の表情を崩した。驚愕を浮かべ、勢いよく動かない手を見遣る。


「動ける筈がないでしょ。ここは……わたしの心の中なんだから」


 月夜見が憎々しげに顔を歪める姿を見据えた時、未咲は背中にふわりと柔らかな風を感じた。深い眠りに就いていた時に、感じた気配。それらが再び、未咲を強く支えるようだった。


「馬鹿にしないで。わたしは……わたしたちは。あんたが思っているほど、弱くないの」


 風のない夜の海のように静かな声とは裏腹に未咲の胸の奥から溢れ出す熱は、月が焦がれてやまない、太陽の光だった。

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