第30話 月夜見と未咲

30-1 呼び声

 未咲は月夜見の中で眠り続けていた。抗いがたい安心感と心地良いぬくもり、どこからともなく湧いてくる多幸感が未咲を夢へと誘い続け、未咲は抵抗する間もなく、いや、抵抗しようという気にもならないまま深い眠りに落ちていた。


 ――……。


 遠い何処かで、誰かの声が聞こえたような気がした。足音は聞こえない。けれど、輪郭のぼやけた気配が、少しずつ、少しずつ、近づいてきている感覚。未咲は薄く目を開き、ぼんやりとした視界で白い闇を捉えた。


 ――……、目を醒まして。


 先ほどよりも近いところで、声がした。

 だれかが、わたしをよんでいるきがする。

 未咲はうとうととしながら、この声は何だろう、と考えた。何を言っているのか、全然わからない。未咲の周りを薄い膜が覆っているように、声は音として聞こえるけれど、はっきりとした言葉は届かない。


 せっかく、ねむっていたのに。じゃましないでよ。


 未咲はもう一度眠りに落ちようと瞼を下ろそうとした。


 ――未咲、起きなさい。


 幼子を叱るように、誰かが言った。

 懐かしい。

 未咲は直感的にそう思った。次いで、頭を撫でられる感覚がした。それは優しく眠りに誘うものではなく、寧ろ、未咲の覚醒を促す厳しくも優しい熱を持っていた。


 ――こんなところで負けるんじゃない。


 未咲は糸に引かれるように、海の底に沈んでいた意識をほんの少し持ち上げた。頭を撫でてくれた人と、同じ雰囲気を感じさせる声だ。その撫でられる感触も、少し厳しいけどとても優しい声も、身体の芯からあたためてくれる。そしてそのことが、これまでずっと自分の身体が氷のように冷え切っていたことを気付かせた。


 ――未咲は強い子だ。


 続けて聞こえた声は、凪いでいた水面に一粒の雫を落として波紋を広げた。


「みさき……」


 誰だっけ、それ。何だかとても、聞き覚えのある響きだった。忘れてはいけない、とても大切なものだった、ような。


 ――さっさと目を醒まさないと、雅久って奴が心配するぞ。


 先ほどとは違う、悪戯めいた口調の青年の声がした。

 もっと沢山、話をしたかったな。そんな思いが胸にじわりと滲んで、何故こんな気持ちになるのかと不思議に思った。知らない声の筈なのに。


 ――未咲。あたしとあたしの子で、旅をするんでしょ。


 次に聞こえたのは、まるで姉のような女性の声。仕方ない子だなあって、呆れた様子で、だけどとても優しく。

 わたしはかつて、彼女に、何かを、彼女の幸せを、祈ったような。

 未咲がそう思った時、誰かが未咲の手を掴んだ。ああ、そうだ、わたしには手がある。未咲はぴくりと指先を動かした。手が掴まれる感触は一つ、また一つと増えて、深い眠りから何人もの手によって引き上げられていく。ずっとぼやけていた身体の輪郭が、描かれる。


 ――あんたは、月夜見じゃない。あんな奴に負けてどうするの。皆、あんたを待ってるんだよ。ねえ、雅久を一人にしないって決めたんでしょ。


「……がく」


 唇に乗せたそれは、とても熱くて、痛くて、愛おしかった。


 ――あんたは誰? 思い出して、さっさと起きなさい!


 未咲は身体の奥から熱くなっていくのを感じた。一人、二人、三人……と、順番に未咲の頭を撫でて、軽く叩いて、髪をぐしゃぐしゃにしていく。未咲は瞼を持ち上げて、感覚の戻った両手を胸の前でぎゅっと握った。


「わたしは、未咲。深山未咲。――未来を照らす、未来に咲く花。それが、わたし」


 皆が意味をくれた、愛おしい記憶が沢山詰まった、大切な名前だ。

 手の内から強い光が漏れ出す。固く握った手を開くと、眩い光を放つ月愛珠と太陽の簪があった。

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