29-6 受容

 鋭利な刃物のように肉塊から飛ばされる肉片が雅久の身体を掠めていく。雅久は致命傷を避けながら激昂する雛夜へと近づいていく。自分でも驚くほどに心は凪いでいた。冬の早朝の澄んだ空気を全身に巡らせた時のように頭は冴え、今自分が何をすべきかも明瞭で、此処で雛夜に殺されることも決してないと確信していた。

 だから、迷わず立ち向かっていける。

 雅久は懐から簪を取り出し強く握り締めた。その手を振りかざした時、肉塊中の目玉が諦めたように肉に隠れていくのが見えた。雅久は歯を食いしばる。

 思い切り振り下ろした簪は、思いのほかすんなりと突き刺さった。雛夜の唸り声が聞こえ肉塊が強張ったかと思うと徐々に力が抜けていったのが簪から伝わってくる。肉と簪の間から血が流れ、簪を握ったままの雅久の手を濡らした。


『これは……どうして』


 雛夜の弱々しい声は震えていた。雛夜が簪に覚えがあることに、あるいは簪の存在――そして、その先にいる未咲の存在――を思い出したことに安堵した雅久の手から簪がすり抜ける。肉塊は紙風船の空気が抜けてくしゃりと潰れるように崩れた。雅久は五歳児ほどの背丈になった肉塊の前に膝をつく。


「もう一人の雛夜が、未咲に渡したんだ」

『みさき』


 雛夜は懐かしい響きを噛みしめるように言った。雅久は瞼の奥が熱くなり泣きそうになりながら微笑んだ。


「憶えているか。未咲のことを」

『……みさき……』


 おそるおそる、大切なものを見つけたように。雛夜はその名を繰り返した。


『あたしの、友だち』

「……ああ、そうだ」

『一緒に旅をしようって、約束したんだ』

「未咲もそう言っていたよ」


 雛夜は小さく、鈴を転がすような声で笑った。


『でも、果たせそうにないね。あたしたちは残骸だ。もう、消えるしかない』


 雛夜がそう言った途端、崩れた肉塊がぼこぼこと波打った。雛夜の声に雛夜ではない誰かの声が重なって嘆きや恐怖を吐いていく。それは幾重にも重なり、例え怨念にまみれた悪霊であっても消えることは恐ろしく悲しいものなのだと訴える。雅久は目を伏せた。ふーっと息を吐き、嘆き続ける肉塊へと目を戻す。


「俺と一緒に生きよう」


 ぴたり。何重にも折り重なっていた声が一斉に止んだ。沈黙が続き、雅久はもう一度口を開く。


「俺と、一緒に行かないか」


 先ほどより強く、迷いなく、雅久は言った。


「未咲が言ったように、旅をするのも良いだろうな。俺もこの土地以外は知らないんだ。色んな場所を見て、色んな人と話して……ああ、海の向こうに行くのも良いかもしれない。いや、まずは海を見てみたいな。そういえば、見たことがないんだ」


 雅久は「知らないことが多いな」と笑った。


「雛夜の子が俺に宿ったように、お前たちも一緒においで」

『……何を言っているのか、わかってるの。あたしたちは、お前を取り殺してしまうかもしれないよ』

「心配しなくていい。俺はこう見えて強いからな」

『そういうことじゃないッ!』


 雛夜は怒鳴った。


『あたしたちは怨霊だ。自分たちの境遇を嘆き、人を妬み、怨まずにはいられない。今お前を道連れにすることだって……!』

「俺が、お前たちの話を聞くよ」


 小さくなった肉塊に残った目玉が姿を見せ、雅久を見つめた。


「辛かったことも、悲しかったことも、恨み言でも良い。沢山話してほしい。俺にはお前たちの怨みを晴らすことは出来ない。けど、全部、受け止めるから」


 雅久は血も腐臭も厭わず、手を伸ばして頬を撫でるように肉塊に触れた。


「だから、一緒に生きよう」


 肉塊の目玉から大粒の涙が溢れ、肉の上を滑り落ちていく。


「雛夜と未咲、それから俺の中にいる雛夜の子で、約束を果たせるな。もちろん、お前たちも一緒だ」


 少し間を空けて、雅久の耳に震える吐息の音が届いた。


『……雅久、お前に言っておかなければいけないことがある』


 雅久は目線で続きを促した。


『あたしが鬼神でなくなっても……お前は、未咲と同じ時間は生きられない。お前のそれは、呪いなんかじゃない。お前からすれば呪いに違いないかもしれないけどね。……あたしが、月夜見から奪った“をち水”をお前に飲ませたんだ』


 雛夜は過去の行いを悔いるように言った。雅久は小さく笑みを漏らす。


「そんな気はしていた」

『……そう』

「未咲が老いていくのを見るのは、辛いだろうな」


 雅久は雛夜が何かを言う前に、一瞬間を空けた後すぐ言葉を続けた。


「それでも、俺は未咲と一緒にいたい。……いつか、未咲と別れを告げるとして。その時、未咲との記憶はとてつもなく痛くて、思い出すたびにやりきれない気持ちになるのかもしれない。だけど、すごく、幸せであたたかいものなんだろう。未咲も、きっと俺と同じ気持ちだと思う。……俺は、それをお前たちと一緒に持てたなら、とても嬉しいと思うよ」

『……馬鹿だね。あんたも、未咲も』


 肉塊から小さな手がいくつも伸び、雅久の手に触れ、雅久の頭を撫でた。


『仕方ないからあんたと行くよ。こいつらも一緒に』


 その言葉と同時に肉塊が光に変わっていき、肉塊に触れたままだった雅久の手から肉の感触が消えた。


「ああ。今度は、未咲を迎えに行かないとな」

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