29-5 親と子

 現実に意識を引き戻された雅久は、自身の頬が濡れていることに気付いた。

 あの後、生贄として捧げられた雅久を殺さないと言い放った雛夜とイザナミの戦いは続いた。何度イザナミにそそのかされようと屈さず、力を欲する悪霊どもやイザナミに抗い、魂を消耗し続けた。


「ずっと、守ってあげる……あたしの、可愛い子」


 生贄に向かってそう言った雛夜の慈愛とわずかな狂気の滲む声が、耳の奥で何度も蘇る。隠しきれない狂気は、子に対する執着心なのだろう。

 無論、雅久は雛夜の子ではない。雅久の容貌、あるいは雰囲気が、雛夜が腹を痛めて産んだ子と似ていて、雛夜は雅久に「わが子」の面影を見たのかもしれない。雅久に与えられた永遠は、鬼神となった雛夜が「わが子」を守るためだった。雅久はそう考える。

 しかし、自身の月夜見に対する怨念と「わが子」への愛情の狭間で長きにわたり戦っていた雛夜の魂は、擦り切れる寸前だった。それ故に今日、イザナミに身体を乗っ取られ、残る力を奪われ、搾りかすの肉塊として切り捨てられたのではないか。それでも、子への愛が、肉塊となった雛夜を立ち上がらせているのではないか。


「これは、雛夜の子の骨なんだな」


 涙が滑り落ち、箱に入れられた小さな骨を濡らす。雅久の言葉に応えるように、それは淡く光を帯びた。


「お前が見せてくれたのか」


 光が強くなる。雅久はありがとう、と唇から感謝を溢し、雛夜の宝物をそっと抱き寄せた。


「一緒に雛夜を迎えに行こう」


 箱から光が浮かび上がる。ふわふわと舞う光は雅久の周りを一周した後、雅久の胸に染みこんでいった。その時、小さな手が頬を撫でていった気がして、雅久は自身の頬に触れた。

 箱の中を見る。暗闇に慣れた目は、先ほどまで確かに存在していた小さな骨の影を捉えなかった。雅久は箱に蓋をし、置いてあった場所へと戻して立ち上がる。振り返り、雛夜と真神が争い続けている外へと踏み出した。



 ◇



 イザナミに身体を乗っ取られ、毒にも薬にもならない不要なものだと肉塊として身体から切り離されたのは、雛夜と雛夜に寄り憑いた悪霊たちであった。雛夜は生前の影も形もない醜い姿に、身を焼かれるほどの憤りと、同じくらいの悲しみを感じていた。

 神はいとも簡単に人間を切り捨てる。もう嫌というほど味わった。魂が擦り切れもう少しでこの世から消滅するかもしれないという瀬戸際の中、せめて月夜見を葬り去る時までは、そして我が子を守るために耐えなければ。そう思っていたというのに。

 月夜見への憎しみさえ不要だと排除されるのならば、雛夜に残されたものは我が子への愛情と、雛夜同様に力を搾取された悪霊たちの怒りと嘆きのみだった。


 ただイザナミの企みに利用された。イザナミの憎しみを晴らすためだけの道具にされた。


 村の守り神としてこの土地に縛られてから幾星霜を経て、守り神としても村人たちから忘れられ、最早自身が何者かもわからなくなるほどに記憶は焼かれた。憎しみと愛の二つしか存在しなかった雛夜の心には、いつしか虚しさが生まれていた。


 もう、楽になりたい。すべてを忘れ消えてしまいたい。

 けれどあと少しだけ、我が子と一緒にいたい。


 雛夜には消滅と存続、相反する願いがあった。そして、もう一つ。


 ずっと、何かを待っていたような気がしたのだけれど。


 ささくれを引っかかれるような、そんなかすかな感覚でしかない。それでも、ずっと頭の片隅にちらつくものがあった。

 けれど、消えてしまえば関係ないか。

 きっと、もう少しで消滅する。雛夜は予感していた。最期の力を振り絞り、これまでずっと守ってきた大切なものを守り通そうと襲いかかってきた白狼と戦っていたが、そろそろ限界を迎えるだろう。


『雛夜』


 その少年の声は、やけに明瞭に響いた。

 雛夜はいくつあるかもわからない目玉を殿舎から出てきた雅久に向けた。憐れにも月夜見の子孫の身代わりとして生贄にされた少年。愛しい我が子――と思っていた少年。月の光で銀色に煌めく髪は月夜見に殺された我が子を思わせ、どんな驚異からも守るために、そしていつまでもともに生きるために、月夜見から奪い取った「をち水」を飲ませ不老にした。憎しみにまみれたこの身体でも、精一杯の愛情を注いでやった。だというのに、結局は月夜見の子孫を愛し裏切ったのだ。月夜見の匂いが強いあの少女を、殺してやろうと何度も告げたというのに!

 裏切り者は赦さない。

 雛夜は矛先を雅久へと向けた。その時、雛夜は雅久からある気配を感じ取った。


「なぜ」


 魂が抜けたような声が溢れる。


「なぜ、お前からあたしの子の気配がする……!?」


 次いで雛夜が感じたのは激しい怒りだった。これまで我が子同然に愛し守ってやったというのに、恩を仇で返すように月夜見の子孫を愛し我が子まで奪うのか。


『お前の子は俺と一緒にいる。この子が自分で、俺と生きることを選んだんだ』


 裏切り者は自身の胸に手を当てて言った。


「この、裏切り者があああ!!」


 雛夜は激情に任せ、肉塊となった身体から千切った肉を次々と雅久へと飛ばす。しかし、雅久はそれらを避けながら雛夜へと迫ってくる。

 身を千切る度に力を消耗していった雛夜には、最早為す術はなかった。このまま何も果たすことなく消えていくのだろうか。雛夜は迫る雅久から目を離さず、そう思った。自身の中で蠢く悪霊たちの哀哭が五月蠅い。未練を残して死に、悪霊となってまでこの世を彷徨い続け我が身と同化した彼らも無念だろう。より強い力と結びつき思いを果たせると信じて、その終焉がこんなにも呆気ないものとは。


 せめて、一緒に逝こうか。


 雛夜は雅久が何かを振りかざした姿を最後に、視界を閉ざした。

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