29-4 わが子

 雛夜に応えるように雅久が微笑を浮かべた時、にわかにぶわりと闇が膨らみ、雅久の視界を閉ざした。雅久は咄嗟に両腕で目を庇う。

 ふと湿気が沈殿したような濁った空気が軽くなり、雅久は顔の前から腕を下ろし片目を開けた。すると、目の前には赤い月光に晒された一軒の家があった。引き戸の脇の柱には白羽の矢が刺さっている。見覚えのある光景に懐かしい思いと苦々しい思いが胸の奥から込み上がる。それは鬼神の生贄となる前に住んでいた雅久の家であった。ふらり、と思わず前に踏み出す。しかし、奇妙なことに家までの距離は少しも縮まらない。

 雅久は狐につままれたような心地で足を止めた。時間が止まってると言われれば信じるほどに、目に映る家もその後ろから頭を出す植栽も、まったく動かなければ匂いや風の気配も感じられない。釈然としない気持ちを抱えたまま雛夜がうずくまっていた場所へと顔を向けると、顔のすぐ横は闇だった。もう一度顔の向きを戻して家を見ると、やはりそこにあるのは闇ではなく赤く染まった家があった。


 まるで誰かが見ている光景を見せられているようだ。雅久は信じられない気持ちで、しかし、それが正解なのだと確信した。これはおそらく、生贄を迎えに行った鬼神が見たものなのだ。未咲が雛夜の記憶を見た時も、こういう絵を見せられていたのだろうか。


 何とも言い難い気持ちで再び雛夜に顔を向けて、雅久は息を呑んだ。雛夜は感情の読めない顔でかつての雅久の家を見つめていた。先ほど光が戻ったと思われた瞳はどろりと濁っている。首より下の身体は闇と同化していて形を捉えることが出来ない。今もなお雛夜の身体を喰った闇がじわじわ首から上へと侵食しているように思えて、雅久は頭から冷水を被った心地になった。

 と、虚ろだった雛夜の表情が驚愕に染まった。目は大きく見開かれ、わなわなと唇が震え、やがて大粒の涙が溢れて頬を止めどなく濡らした。


「あ……嗚呼……」


 吹けば消えそうな声が雛夜の喉から絞り出される。雅久は雛夜の目線を追い、その先で飛び込んで来た光景に一瞬息を忘れた。

 赤い光が差し込む闇で、正座をして目を瞑っている少年。それは、未咲の祖母である澄子の代わりに生贄となり、ただ静かに鬼神を待つ雅久であった。


「あ、あたし、の」


 雛夜が震える声で続ける。


「あたし、の、子」


 その言葉に、雅久は目を瞠った。どういうことだと問い詰めたい気持ちを抑え、雛夜の様子を窺うと、雛夜は徐々に怒りを露わにした。


「お、おの、れ……我が子可愛さに、嗚呼、許さぬ、どうしてくれよう……!」


 雛夜の髪の毛が逆立つ。その背後から何者かが雛夜を抱き締めたように雅久の目には映った。


 ――雛夜、まずはその子を喰らえ。


 無理矢理耳の穴にねじ込まれたように脳内で声が響き、雅久は全身が粟立った。

 これは、イザナミと呼ばれたあいつの声だ。やはりイザナミは雛夜と繋がっていた。

 未咲の話では、憎しみに支配された雛夜の心には他の悪霊が寄り憑いていたという。雛夜に纏わり付いていたあの数多の黒い腕は、雛夜の心に棲みついた悪霊どもなのだろう。ならば、此処は、この闇は、雛夜の心の中ということか。


 ――その子の髪を見ろ。銀色だ。霊力がたっぷりと宿った……嗚呼、素晴らしい。もっと、もっと力が手に入る……早く喰らうのだ、雛夜。


 うっとりと熱に浮かされたような声が続く。


 ――さあ、その子を喰らい、月夜見の子孫を殺しに行こうぞ。


 思わず逃げ出したくなる声だ。雅久はぎゅうと腕を強く掴んだ。


「……この子は、殺さない」


 凪いだ夜のように静かな雛夜の声が響いた。殺すものか、と雛夜が語気を強める。


「あたしの子を……二度と殺させるものか!」


 強い光が雛夜を抱き込む闇を払った。

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