29-3 未咲の光

 混じりけのない闇で、女性が泣いていた。

 地面や空といった概念が喪失している闇の中でしゃがみ込んでいる彼女は、両手で顔を覆って肩を震わせている。涙を流す彼女から伝わってくるのは、胸をく深い悲しみだった。雅久は見ているだけの、彼女が泣いている理由さえ知らない自分までもが酷く悲しく辛い気持ちになるのを感じた。


「雛夜」


 何故か、その女性が雛夜だとわかった。声が届いていないのか、雛夜はこちらを見向きもせず同じ体勢で泣き続ける。


 しくしく。しくしく。


 すすり泣く声が響く。居た堪れない気持ちになって、それでも雅久は眉尻を下げて雛夜を見つめることしか出来ない。


「どうして、泣いているんだ」


 訊ねてから、愚問だと思った。未咲から鬼に関する事の顛末てんまつを聞いたというのに、浅はかであった。泣いている理由など、火を見るより明らかだ。


 しくしく。しくしく。


 静寂に包まれた世界では、雛夜の泣き声がやけに大きく明瞭に耳に届く。雅久は泣いている女性の慰める方法など――事情を知った上では余計に――持ち合わせていない。雛夜の震える肩に触れることもはばかられる。

 此処は何処なのだろう。未咲が月夜見や雛夜の記憶を覗いたように、今自分は雛夜の記憶や夢に入り込んでいるのだろうか。

 雅久が小首を傾げたその時、雛夜を取り囲む闇からもやのような影が現れた。ぴくりと身体を揺らし目を凝らすと、その影が人間の腕の形をしていることがわかった。一本、二本、三本……と雑草でも生えるように増えていく腕は、雛夜の身体に纏わりついていく。


「……嫌だ……」


 雅久の耳は小さく呟かれた言葉を拾った。怯えを多分に含んだ声に、雅久はすかさず刀を抜き、雛夜に手を伸ばしている腕を斬った。斬られた腕は闇に雲散していく。消える間際、靄からぎらりと怨みがましい目に睨まれた気がして雅久はぎくりとした。


 これは一体何だ。


 雅久は目の前で繰り広げられる光景がどんな意味を孕んでいるのか理解が出来ず、訝しげに眺めることしか出来ない。しかし、茫然としていたのも束の間、消えた筈の黒い腕がまた次から次へと現れ、雛夜へと伸びていく。雅久は即座にそれらを雛夜から払おうと動くも、先ほどよりも明らかに数が増えた腕が瞬く間に雛夜を覆っていき、雛夜の姿がまったく見えなくなった。


「雛夜!」


 雅久は刀を鞘に納め、躊躇うことなく雛夜を覆う無数の腕を掴もうと手を伸ばす。しかし、握った拳の中には何もなく、虚しくも自らの爪が手のひらに食い込むだけだった。何度手を突っ込もうと結果は同じで、雅久は為す術無く項垂れる。

 此処でもただ見ていることだけしか出来ないのか。悔しい思いが胸に広がる。脳裏には月夜見に身体を乗っ取られた未咲が冷酷に微笑む姿が浮かんだ。

 くそ、と雅久が吐き捨てると同時に、雛夜がしゃがみ込んでいた場所から光が漏れ出した。光が苦手なのか、腕は苦しげに手指を折り曲げその身を捻り、やがて朝日に照らされ霧が晴れるように散っていく。

 自身をさらなる闇に閉じ込める腕から解放された雛夜は涙に濡れた顔を上げた。両手のひらに包み込んだ小さな光球を虚ろな目で眺めている。はく、と雛夜の唇が上下した。


「……誰……だっけ」


 呟く雛夜の傍に、雅久は膝をついた。雛夜とともに光球を見つめると、その光の奥に何か棒のようなものが見えた。もしかして此処に来る前に見つけた骨だろうか、と雅久は首を捻る。小さくも眩い光に目を細めながら光に隠れた棒の正体を探ろうとすると、一瞬明滅した隙にはっきりと見えた。


「簪……」


 雅久は吐息で呟いた。次いで、ぐっとこみ上げてくるものを抑え込んで、光を見つめたままでいる雛夜の顔に目線を移した。蒼白い肌、紫色に染まる唇は、やはり雛夜は死人なのだと突き付けられるが、手のひらの光を反射する瞳にはあたたかな光が灯っているように見える。

 これは未咲の光だ。闇夜を照らす、優しい光。きっと、こうして雛夜が怨念に取り憑かれた後も、未咲は雛夜を守っているに違いなかった。その事実が雅久を奮い立たせる。お前は確かに、未来を照らす花だよ。そう心で呟いて。


「俺が持っている簪と同じだな」


 雅久は懐から月が彫られた簪を取り出した。これは未咲がくれた光だ。愛情という、曖昧で、けれど確かなものだと信じられる光。


「今は、俺が持っているよ。雛夜が未咲に渡して、未咲が俺に持っていてほしいと渡してくれたんだ」


 聞こえているかも定かではない雛夜に、雅久は優しさと未咲から受け取った愛をまぶした声で語りかける。


「あなたが、繋いでくれたんだ」


 死してなお、雛夜は此処で必死に生きている。


「雛夜の心を、魂を、最後まで守ろう」


 雅久がそう告げると、雛夜が初めて雅久に顔を向けた。涙に濡れた瞳がきらきらと輝いている。あてどもなく彷徨い続けた先で何かを見つけたように唇は薄く開いた。

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