29-2 遺骨

『渡さぬ……渡さぬ……』


 肉塊は同じ言葉を繰り返す。雅久は肉のあちらこちらに傷があることに気付いた。雨とともに流れる赤黒い血。雅久にはそれが涙に見えた。


『奪う者は、許さぬ……!』


 ぎょろり。肉塊の傷口が開き無数の目玉が現れ雅久を睨み付けた。開かれた目玉から血涙が溢れ肉塊を赤黒く染めていく。雅久は鋭く息を呑み、刀の柄に手を添える。


「雛夜、俺がわかるか」


 雅久は小さな子どもに言い聞かせるように、努めて柔らかく訊ねた。鬼神に生贄として捧げられ、長年――ほとんど会うこともなく、言葉を交わすことはなくとも――ともに過ごしてきたのだ。目の前の肉塊がその鬼神であれば、自分のことを認識し話すことが出来るのではないか。雅久はそう考えた。

 しかし、肉塊はしきりに「許さない」と繰り返すばかりで雅久の言葉が届いている様子が見えない。雅久は思わず舌打ちした。肉塊はじりじりと雅久に近づき、今にも襲いかからんと殺気を滲ませている。


 一体、殿舎の中には何があるのか。肉塊が守りたいものは何だ。雅久はちらりと背後に目線をやった。その瞬間、何かが飛んでくる気配を察知し、雅久は刀を抜いてそれを薙ぎ払った。べちゃり、と熟れた果実が潰れた音がし、振り払った先に目線を落とすと肉片らしき血の塊が飛び散っていた。ぶつぶつと怨念のこもった低い声で呟き続ける肉塊を見ると、ぶち、ぶち、と肉が本体から千切れ地面へと落ちていく様子が目に飛び込んできた。時折、千切れて落ちる肉の中には目玉も混ざっていた。地面に転がった目玉がぎょろりと雅久を睨んだ。


 雅久はごくりと喉を鳴らし、肉塊を威嚇しながら間合いを取っている真神へと目を移す。

 ちらり。

 一瞬、真神が雅久へと意識を向けたのがわかった。雅久はぐっと柄を握る手の力を強める。

 肉塊の周りに落ちた肉片や目玉が黒いもやを纏って浮き上がった。靄は黒雲なのか、黒雲の影に小さな雷撃が見え隠れしている。


 数秒か、それとも数十秒だったか。凶器と変じた肉片や目玉を覆う黒雲が歪に膨らんだ直後、轟音とともに稲妻が空を引き裂いた。弾かれたように雅久は身を翻し、入り口を曖昧に塞ぐ骨組みを斬る。傷んでいた木材は音を立て地面に落ちる。雅久は殿舎の中に素早く潜り込んだ。背後で真神が肉塊に襲いかかる獰猛な声と肉塊の怒号が響く。雅久を追って殿舎に飛び込んで来た肉片を斬り払うと、刀身に伝う電撃が暗い殿舎の内部をわずかに照らした。

 空から何度も落ちる雷が暗闇を払う瞬間を狙って、雅久は殿舎内を見回す。朽ちかけた殿舎の内部はそこかしこが傷んで見えた。倒れた蝋燭立て、供物台、そして隅の方に小さな四角い影があった。やけにその影が気になって、雅久は背後を警戒しながら影があった方向へと慎重に進む。真神が肉塊と戦っていると思うと気が急くが、雅久は冷静であれと自分に言い聞かせる。


 壁に突き当たり、雅久は壁に手をついて膝を折った。雷が落ちる。四角い影が見えた。また暗くなる。雅久は影があった方へ手を伸ばした。

 こつん、と指先に固い感触があった。雅久はそれを掴み引き寄せる。両手で大きさや形を確認すると、手のひらに収まるほどの小さな木箱だとわかった。上部が蓋になっており、雅久は迷わず蓋を外した。何故だか言い様のない気持ちが込み上がってくる。胸が詰まる思いがするような、胃に重石が落とされたような、言葉にはし難い心地に雅久は眉をひそめた。

 箱を揺らす。こつ、こつ、と固いものが箱にぶつかる軽い音がした。

 響く雷鳴。白む殿舎。箱の底に棒のようなものが見えた。雅久は息を呑む。


 ――骨だ。大きさからして、おそらく、赤ん坊の。


 その時、雅久の脳裏に本のページを捲るように様々な光景が矢継ぎ早に駆け巡っていく。雅久は突然頭に溢れる情報量の多さに眩暈がした。しかし、強く目を瞑り視界を断絶しても、映像は止めどなく流れてくる。


「何だ、これは……っ」


 雅久は前髪を掻き上げながら手で額を押さえ苦しげに吐き出した。処理しきれないほどの情報量は雅久の頭を痛めつける。

 膨大な量の絵が次々と脳内で切り替わる。やがて、雅久の意識は完全に別の次元へと飛んだ。自身が一体何処にいるのか、気絶して夢でも見ているのか判断がつかない。


 ――ゆるすまじ、つくよみ。


 女性の声で唱えられた呪詛が、脳内に反響した。

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