第29話 雛夜と雅久

29-1 残骸

 赤い月光に包まれた不気味な森を駆ける。

 雨に濡れた着物が肌に貼り付いて鬱陶うっとうしい。全身を流れる雨水が容赦なく身体の熱を奪っていく。雅久はぶるりと肩を震わせた。鮮やかで巨大な赤い月は分厚い雲に隠れることなく爛々と怪しげな光を大地に降り注いでいるというのに、滝のような雨は弱まることを知らずに山に川を作り上げている。それは奇妙な光景だった。


 雅久は周囲を警戒し感覚を研ぎ澄ませていると、突如巨大な鉄槌を下したような爆音が響き、空気が大きく震えた。根元から割れた木が真神の道を塞ごうと倒れてくる。真神はぐっと力強く地面を蹴り速度を上げ、倒木と地面の隙間をすり抜けようとする。直後、雅久は殺気を感じ取った。


「そのまま行け、真神!」


 雅久は鋭く叫び鞘から刀を抜いた。真神は振り下ろされた鉄槌を押し返すように雄叫びを上げて足を前へ動かし続ける。真神が倒木の下をくぐり抜けた瞬間、真横から黒い影が襲いかかる。雅久は紙一重で刀を振り上げ影を斬りつけた。刀が肉に食い込む感触。重い。雅久は顔をしかめ渾身の力で薙ぎ払った。反動でビリビリと腕が痺れ、背中の傷が鈍く痛んだ。


「迷うな! 敵は俺が討つ!」


 真神を鼓舞し、迫ってくる黒い気配に神経を研ぎ澄ませる。真神は速度を上げた。疾風のように走る真神に追いつける者はなく、時折行く先で待ち構えていた影が倒した木を真神が避け、飛び出してくる影の攻撃は雅久が捌いた。


「……蛇か」


 頭上を覆う木々の影に隠れていた姿。刀で肉を斬り裂いた瞬間、それは見えた。以前、朔の日に未咲を襲った大蛇よりも体躯は一回りほど小さく、けれど油断することを許さない荒々しく鋭い光を宿した金色の瞳をしていた。

 イザナミの身体が鬼となった雛夜のものだとすると、鬼は大蛇と人間が融合したもので、今雅久と真神を襲ってきている蛇は鬼の手先なのかもしれない。イザナミの上半身にも雷を纏った何匹もの蛇が這っていたし、妥当な考えだろう。

 いや、もしかするとその逆かもしれない。あの身体はイザナミのもので、蛇もまたイザナミの手先の可能性もある。

 いずれにせよ、雅久は確信した。この先には何かしら見つけられると不都合なものがあるのだろう、と。

 やはり真神は正しい道に導いてくれる神だ。雅久は刀を握り直し、頼もしい味方に足を任せ、襲い来る敵から真神を守ることに集中した。



 真神が導いた先にあったのは、寂れた祠だった。石壁に囲まれ、四段の石段を上がった場所に至る所が傷んだ殿舎が建っている。薄汚れた注連縄しめなわは無惨にも千切れ、殿舎の扉は内部から無理矢理打ち破られ、折れた扉の骨組みが鋭い切っ先を剥き出しにしている。

 雛夜はずっと、此処に閉じ込められていたのだろうか。見る者を侘しい気持ちにさせる、この場所で。怨念により力を得てしまったばかりに村人から祀られ、鬼神となり、此処で村を守り続けていたのか。

 雅久は石段を登り、殿舎に入ろうと破壊された扉の折れた骨組みに手をかけた所で、ピタリと動きを止めた。


 ……ずり、ずり……ずず……。


 背後から何かを引き摺る音がした。同時に、石段の下で待っている真神の威嚇する声が聞こえた。雅久は刀の柄に手をかけ、素早く振り向く。


『許さぬ……それだけは、誰にも、渡すものか……』


 聞き覚えのある、女性の声。それこそが、雅久が何度も聞いてきた鬼の声であった。しかし、


「雛夜、なのか」


雅久は慎重に、声が震えてしまわないように注意を払って訊ねた。確信が持てない。思い描いていた鬼の姿とかけ離れていて、そしてあまりに、気味の悪い姿で。イザナミのように人間と蛇が融合した姿でもない。そもそも人間の形を留めていない。


 肉塊。


 それが、目の前に現れた異形のものにもっとも相応しい名前。

 腐っているのか、変色して、青黒い肉だった。ぼこぼこと至る所が隆起して、それぞれの突起部分に心臓があって、脈打っていると思わせた。揃わない脈動のせいで、その肉塊が蠢いているように見える。

 えた臭いが鼻を突く。土砂降りの雨は肉塊から漂う悪臭を洗い流してはくれないようだった。


 恐ろしく、気味の悪い光景だというのに、雅久は肉塊から漂う悲壮感に胸を突かれた。

 こんな姿になってまで存在しているということが、ただ悲しい。

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