28-5 導きの神

荒れ狂う閃光、龍のように獰猛な水がぶつかり合い、その空間を猛然と支配している。

 雅久は圧倒的な存在感を放つ未咲の後ろ姿を胸がえぐられる気持ちで見つめていた。今“それ”と戦っているのは未咲ではなく月夜見であった。ただし、身体は未咲のもので。それは、即ち――月夜見が未咲の身体を乗っ取ったことを意味する。その事実に、雅久は慄然りつぜんとした。あそこにいるのが月夜見ならば、未咲は今、何処にいる?


 全身を駆け巡る焦燥感に頭が上手く働かない。考えることを拒否しているようだった。何故なら、考えれば考えるほど……絶望に目が眩んでしまうから。

 思えば、朝から未咲は様子がおかしかった。蒼白い顔をして、不安を滲ませて、目が怯えていた。溜め息を吐く回数も多く、事あるごとに胸元の月愛珠をいたずらに触っていた。朔の日だから。月が赤く染まると大山祇神に言われていた日だから。だから、気の毒なほどに不安で緊張しているのだろうと思った。なのに。


 本当は、未咲は月夜見が虎視眈々と自分を狙っていることに気付いていたのではないだろうか。


 雅久は全身が火に炙られたように熱くなった。未咲は月夜見のことを一言も口にすることはなかった。どうして、何も言わなかったのだろう。俺が、頼りなかったから? 未咲を守れるほどの力がないからか? だから、何も言えなかったのだろうか。

 雅久は自身の無力さを嘆いた。今もこうして、月夜見たちの戦いを間が抜けたように傍観することしか出来なくて、月夜見から未咲を取り返すことも、“それ”の正体を暴き猛攻を食い止めることも出来ずにいる。


「ぐ……っ!」


 暴風に煽られたと思うと、風に激しい雨が混ざり始めた。容赦なく打ち付ける雨が雅久の視界を奪う。雅久は腕で雨を防ぎ、狭い視界の中で彼らの様子を窺う。


 先ほど、月夜見は“それ”を「イザナミ」と呼んだ。雅久の記憶が正しければ、イザナミとはイザナギとともにこの世界を造り、森羅万象の神々を産んだ女神だ。しかし、イザナミは火の神を産んだ時に命を落とし黄泉の国にいる筈。夫神であるイザナギがイザナミを黄泉の国から連れ出すことに失敗した話はあまりにも有名だ。イザナミは死者の食べ物を口にしたため黄泉の国から出られず、現世に帰ることは出来ないのだ。だというのに何故、イザナミは此処にいるのだ。

 それに、だ。あれがイザナミだと言うのなら、雛夜は何処にいる? 声は雅久も聞いたことのある鬼の声だった。けれど、何処か違う者の声だと感じて。だと、すれば。


 未咲と同じく、雛夜はイザナミに乗っ取られている状態なのだろうか。


 頭を過ぎった閃きは、胸の奥にすとんと落ちた。

 イザナミは雛夜の魂が奈落へ堕ちる時を待って、自分の元へ堕ちてきたその瞬間、雛夜に取り憑いた。雛夜の魂と繋がりを得た、の方がしっくりくるかもしれない。黄泉の国にいるイザナミと、鬼神として祀り上げられ現世に魂を縛り付けられた雛夜が結ばれた。そして、赤い月の、異界と現世が交わる領域が広がる夜、イザナミは雛夜を乗っ取ることで現世に戻ってきたのではないか。もしかすると、あの御神木は、まさか、黄泉の国への入り口になっている?


「でたらめが過ぎる……何なんだ、それは」


 雅久は苛立ちを隠さず吐き捨て、濡れそぼつ前髪をぐしゃりと握った。

 目の前で繰り広げられている激しい神々の攻防を見る限り、狙いは互いの命か。青白い稲妻と荒れ狂う水がぶつかり合う度に旋風が巻き起こる。二人の力は拮抗している。時折、鋭い閃光が未咲の肌を傷つけ、雅久は心臓が止まる思いがした。早く、何とかして未咲を取り戻さなければならないのに、何の策も思いつかない。神々の戦いに割って入ったところで、彼らは雅久に目も向けないだろう。

 ままならない状況に雅久は歯がみした。此処で突っ立っていても何も変わらない。だから何か、何かをしなくてはいけないのに。

 雅久は悔しさに顔を歪めて月夜見とイザナミを睨んだ。と、その時、あることに気がついた。


 そういえば、真神は何処だ?


 雅久はハッと目を見開いた。真神の姿が見えない。辺りを見回して真神を探すと、ぐっと何かに背中を押された。勢いよく振り返ると、真神がただ真っ直ぐに雅久を見つめている。イザナミに威嚇していた時の凶暴さは鳴りを潜め、静かに、黒々と光る清閑な瞳で。


「真神」


 雅久に応えるように、真神が唸る。轟く雷鳴も、激しく流れる水の轟音も、暴風に煽られてしなこずえの音も、その時ばかりは遠くの世界に切り離されたようだった。


「月夜見のところに行かなくていいのか」


 雅久は硬い声で訊ねた。真神は微塵も揺らがない瞳のまま、雅久をじっと見つめている。かつて山で道を見失った日本武尊やまとたけるのみことに正しい道を与えた狼。善悪を見分け、悪しきを喰らい善を助ける神。その真神が、この場には他に誰も存在しないというような、あまりに真っ直ぐな目を雅久に向けている。雅久はきゅっと唇を引き結んだ。


「行こう、真神」


 雅久は刀を鞘にしまうと素早く真神の背に乗り上がった。暴風に飛ばされてしまわないよう真神にしがみつき、気を引き締めるように息を吐き出す。

 今此処で月夜見から未咲を取り戻そうとしても、得られるものは何もない。その明白な事実は雅久の心を焦したが、大事なのは確実に未咲を助け、未咲の望み通り雛夜を救うことだ。それを忘れ暴走してはならない。目を瞑って自身を律し、澄んだ鏡の如き湖面へと心を戻す。


 永い時の中でようやく見つけた未来の灯火。その光は、簡単に消えるものではない筈だ。手放しはしない。必ず守ってみせる。


 次に雅久が瞼を上げた時、あらわれた双眼は煌めく強い意志に彩られていた。

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