28-3 神が宿る

 本当にこれが、鬼となった雛夜なのだろうか。雅久は“それ”の少しの挙動も見逃すまいと目を光らせながら疑念を抱いた。


 雅久はこれまで何度も鬼と会っている。会っていると言っても鬼の姿は見ていない。いつも雅久の傍に来てはすすり泣くか月夜見への呪詛を吐き散らす声を夜気に充満させ去って行くからだ。故に、“それ”が鬼であるかは姿を見ただけでは判断出来ない。ならば、声なのだが。

 先ほど耳にした声は、雅久が聞いていた鬼の声ではないような気がした。声に混じる雑音がその声を酷く曖昧にさせているが、ほとんど同じ声に聞こえながらも、拭い切れない違和感がある。何かが違う。何かが。


 “それ”は何の躊躇ちゅうちょもなくこちらを攻撃してくる。未咲から聞いていた雛夜の荒魂あらみたまが正体であるならば、未咲を見て一欠片でも表情や声に動揺が滲むと思っていたが、期待はまるで外れた。“それ”の瞳は相変わらず凶暴な光を湛え、その光は耳に向かって裂けた口元同様、嬉しげに明滅している。


 雅久が“それ”の瞳を凝視していると、不意に瞳の光がどろりと溶けて澱みない金色を濁らせた。途端にぐにゃりと視界が歪み、雅久は顔をしかめ喉から獣のような唸り声を絞り出した。胃からせり上がってくる苦いものを飲み下して“それ”を見据えると、雅久は視界に映った御神木の異変に気付き目を剥いた。影絵のようだった御神木は黒い輪郭だけを残し、その内側で濁水が幾重にも渦紋かもんを描いている。

 体勢を立て直した真神が雅久の隣で低く構え、牙を剥き出し威嚇した。雅久は湿り気の感じる手で刀を握り直す。


 澄子の時も、赤い月が昇り異界との領域が曖昧になって、当時月夜見の加護が残っていた御神木を通じて、澄子と澄子と想いが通じた男は異界へと渡った。雅久は網膜に焼き付いているその光景を思い出す。

 美しく神秘的な光が辺り一面を覆い、無数の淡い桃色が風に舞い踊る。血を連想させる赤い月光が空から降り注いでいるにも関わらず、黒く粘り気のある澱みを浄化する清廉とした空気が一帯に広がって、まるで世界中が想いの通じ合った二人を祝福しているようだった。

 だから、そう、雅久は「異界へ繋がる扉が開く条件」が月夜見の力と……澄子と男の「想い合う心」なのだと思っていた。彼らの濃密な心が溶け合って、共鳴した神の奇跡が彼らを守るのだと。そう思うに相応しい光景だったのだ。


 だが、今視界を占領している景色はどうだ。暴力的と言うには静かすぎる、しかし見る者の背筋を凍らせ五感を奪う圧倒的な混沌。澄子が起こした奇跡が世界の祝福だと言うのなら、こちらはこの世のあらゆる負の感情を凝縮し煮詰めた呪詛。

 酸素が奪われていくようだ。雅久は額から流れる汗が顎を伝い地面に落ちた音が聞こえた気がした。


「――醜いな」


 背後から聞こえた平坦な声に、雅久は総毛立った。淡々と紡がれた声には温度がなく無機質なもので、緊迫した空間の中では異質だった。その異質さが、異様であることをもって、全身が強張り心臓が騒ぎ立てる。


 未咲の声だ。しかし、未咲ではない誰かの声。


 背中で無数の羽虫が蠢いているようだ。背後の威圧感に神経が持って行かれる。雅久は震える息を吐き出した。隣の真神がその存在に見向きもせず――そう、その存在を信頼しているような――“それ”を見据え続けていることもまた、雅久の背中を無遠慮に殴りつけた。


「やはりお前は、永劫地獄にいるべきだ」


 雅久は振り向けなかった。今すぐ未咲の安否を確認したいのに、ねっとりとしたおそれが雅久をその場に縛り付けた。手足の感覚が身体をすり抜けて何処かへ行ってしまった。だというのに、視界から赤銅しゃくどうに煌めく刀が消えないのが奇妙に思えた。


「醜悪で憐れな化け物め」


 それは未咲の言葉じゃない。未咲の声を借りて吐き出される呪いの言葉がおぞましい。耳を塞ぎたくてたまらない。耳から侵入し身体を陵辱していく蛇のような呪詛を引き千切って炎に投げ捨ててしまいたい。雅久は感覚のない両手を怒りに震わせた。


「ここまでご苦労であったな。この愚かな娘がようやく力を覚醒させたのも、貴様の存在があってこそだろう。――雅久」


 吐き気がした。未咲の声で、未咲ではない者が、俺の名前を呼ぶな。雅久は頭がカッと熱くなるのを感じた。背中に触れた労いの声は、胸を通り抜け雲散する。


「悲しむことはない。未咲は我の中にいる」


 誰かが、雅久の横をすり抜け前に出た。“それ”の顔が歓喜に歪む。能面のような笑みを崩し目や鼻や口の位置が歪みに歪むほど身体では表現しきれない喜びがそこにあった。


「つくよみ」


 対する未咲――否、月夜見もまたくらい喜びを灯した笑みを浮かべる。


「待ちわびたぞ、イザナミ」

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