28-2 狂喜の蛇

 道標となっていた月愛珠の光が収まった。

 辿り着いた先で花を咲かせる御神木は黒く染まり、まるで影絵だった。墨に染められた御神木の絵が切り取られて、目の前の景色にぺたりと貼り付けられている。立体感がなく平坦に見えて、周囲にまるで溶け込めていない。いつだって御神木と呼ぶに相応しい存在感と神々しさを纏っていた桜の大木は、今はこの世の負の感情をすべてその身に閉じ込めているようだった。


「何だ、これは」


 雅久は茫然と御神木を見つめた。これまで生きてきた長い時間の中でも、初めて見た御神木の姿であった。

 長い年月の中で、いつからか恐怖など感じなくなっていた筈なのに。未咲と出会って知ってしまった未咲を失うかもしれない恐怖と、視界を埋め尽くす異様な光景への言葉にし難い恐怖。昨日正芳の遺骨を埋葬しに来た時には相も変わらず美しい桜を舞わせていたというのに。

 突如、真神が唸った。ハッと我に返った雅久は、御神木の下の人影に気付いた。鋭く息を呑み、警戒を強めて目を凝らす。


ようやく」


 人影が口を開いた。女性の声だ。ざざざ、と雑音が混ざり耳障りな声である。だというのに、やけに鮮明に耳に届く。雅久は眉間に皺を刻んだ。


「殺せる」


 嬉しくて堪らないと恍惚とした声が雅久の耳を蹂躙じゅうりんした。雅久は顔をしかめ、咄嗟に右耳を手で抑えた。両耳を塞いでしまいたかったが、一片の理性が「未咲を離してはならない」と叫び持ち上げそうになった左腕を押さえ込んだ。

 雅久と同じ体格に見えた人影が突然歪に膨らんだ。人影から縄のようにしなる細い闇が何本も伸び、人影の下半身は足の形をなくし丸みを帯びた。地面を這うように伸びた下半身は蛇を思わせた。いや、正しく、蛇であった。

 破裂音が何度も響き、同時に、影の上半身から生えた細い闇から小さな雷が放たれた。影が雅久たちに近づいてくる。御神木が地面に落としていた闇から抜けて、赤い光がその姿を照らした。


 “それ”は雅久の左目と同じ目を持っていた。顔に不釣り合いな大きな両目は赤い月の光を打ち消すように獰猛な金色の光を放っている。顔面の至る所が歪に隆起し、口の端を裂いて大きく開かれた口からは太く鋭い二本の牙が顎まで届いていた。“それ”の首にうねる影が巻き付く。顔の脇や頭上でも細長い影が身をくねらせ、何本もの影から、金色や赤色の光が生まれた。


 蛇だ。


 バチバチと音を立てる雷を纏い、何匹もの蛇は一斉に雅久へと目を固定した。獲物を狙う捕食者の目だ。

 雅久は自分が少しでも“それ”から距離を取ろうと、無意識の内に身体を仰け反らせていたことに気付いた。ぐ、と奥歯を噛んで自身を叱咤する。呑まれてはいけない。呑まれたら、未咲を守れない。


 “それ”は鬼神と呼ぶに相応しいと思えた。一目見るだけでも背筋は凍り、狂喜を纏わせた殺気が全身に重くのしかかってくる。並の者なら一瞬にして平伏しただろう。それどころか、意識を手放すことになったかもしれない。雅久は額に汗を滲ませ苦しげに顔を歪ませた。しかし、“それ”から目を逸らすまいと力を込めて瞼を持ち上げ続ける。


 バチィッ! と、威嚇するように雷撃が真神の足元に叩き付けられ、真神は飛び退いた。雅久は片腕で未咲を支え、真神にしがみつく。低い唸り声が聞こえたと思うと、真神が勢いよく地面を蹴った。


「待て、真神!」


 雅久の制止も虚しく、真神は雅久と未咲を乗せたまま“それ”に飛びかかった。“それ”はにまりと笑ったと思うと、身体中に雷を纏い鱗状の腕で真神を薙ぎ払う。瞬間、雅久は息を奪われた。襲いかかる風圧。未咲を庇う背中に鋭い痛みが走ったと思うと、真神の背から振り落とされ地面に叩き付けられた。燃えるように熱い背中から血が滲む。地面に触れる寸前に未咲の身体の下に差し込んだ腕が鈍く痛み、どくどくと波打つ拍動が耳に響いた。


 雅久は腕から未咲を下ろし、痛みを堪えて立ち上がった。腰に提げた刀を鞘から抜き、“それ”に赤い光を受けて血の色に染まる刀身を向けた。

 殺そうと思えば、こちらが意識する間もなく殺せるに違いない。けれど、“それ”は久しぶりの再会を喜ぶ友人のように、無邪気な感情を能面の微笑みを貼り付けた顔に塗りたくり――遊んでいる。すぐに殺すのは勿体ないと、命を落とすギリギリまでいたぶるつもりなのだろう。その醜悪さが、歪な顔面に広がっている。

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