第28話 月を喰う夜

28-1 赤い闇

 その日、月が赤く染まった。


 未咲と雅久は真神の背に乗り鬱蒼うっそうと茂る森の中を駆けていた。真神が駆ける先には、月愛珠げつあいじゅから放たれる細い光が伸びている。

 月愛珠が光を伸ばしたのは、山々の向こう側に滲む空が茜色に染まり夜の群青に移り変わろうとする逢魔おうまが時であった。


 この先に鬼となった雛夜が待っている。


 そう確信した未咲と雅久は迷わず大山祇神おおやまずみのかみの屋敷を出て真神に光の行方を追わせた。木々の間を縫うように走っていく真神の背で、未咲は眉をひそめた。


 光は御神木を指し示しているのではないか。


 未咲を抱き締めるようにして後ろに乗っている雅久もまた同じことを考えたのか、未咲の耳元で低く未咲を呼んだ。未咲は前を見据えたまま顎を引いて頷く。


 不気味なほどに山の中は静まり返っている。真神が地面を蹴る音や、真神が起こす風に草木が擦れる音くらいしか届いてこない。

 未咲はごくりと息を呑んだ。前に進むほどに拍動が速まり、鼓動だけが耳の奥で響いている。山は沈黙を貫いていた。真神や背中に密着した雅久の身体から伝わる熱が未咲を現実に繋ぎ止めているように思えて、そのぬくもりに身を任せて眠ってしまいたいと思った。次に目を覚ました時、すべてが終わっていることを夢見て。


 ぶる、と未咲は首を振った。真神に触れた両手が小刻みに震えている。上手く力が入らなくなってきて、未咲は自分が怯えていることに気付いた。恐怖がどんどん眼前に迫ってきている。全身が粟立って、これ以上先に進んではいけないと、頭の片隅からもう一人の未咲が叫んでいた。


 ぐしゃり、びちゃびちゃ、ばたん。


 耳の奥でおぞましい音が響いた。視界が真っ暗になる。びくり、と身体が大きく痙攣し、ぶるぶると震える自身を未咲はガバッと両手で抱き締めた。

 ドバッと冷や汗が噴き出し、肌にべたりと引っ付く布が気持ち悪い。世界が揺れている。キーンと黒板を爪で引っ掻くような音が鳴り止まず、未咲は思い切り顔を歪ませた。ぐらりと傾いた未咲の身体を、雅久が強く抱き留める。


「真神、止まれッ!」


 雅久が叫び、真神は反射的に駆ける足の勢いを殺した。土を引き摺る音とともに真神が完全に止まると、未咲の荒い息遣いがやけに響いた。雅久は焦りを表情に滲ませ後ろから未咲の顔を覗き込む。


「未咲、どうしたんだ!」


 未咲は答えられないまま必死に呼吸を繰り返した。時折唾を飲み込み、また浅い呼吸を繰り返す。

 冷たい闇が未咲の内側に広がっている。熱を奪われ、細胞がぷつりぷつりと未咲から切り離されていく。その度に身体が軽くなっていくような、けれど足首に縛り付けられた重りが増して海の底に沈められていくような感覚に陥った。


 ――刹那、世界が赤く染まった。


 雅久は弾かれたように空を仰いだ。木々の切れ間から、世界を呑み込むほど巨大な赤い月がこちらを睨み付けている。雅久は未咲をぎゅうと胸に抱き、赤い月を睨み返した。赤い光は容赦なく雅久の眼球を突き刺し目の奥に鈍い痛みを与えた。

 未咲の首からぶら下がる月愛珠は未だ道を指し示している。未咲はがくりと項垂れ、は、は、と短い息を吐き出し苦しげだ。雅久は口の中が苦くなるのを感じて唾を飲み込み胃に流し込む。苦味は消えない。

 未咲、と雅久が呼びかけるも未咲は何も返さない。未咲の肩に触れた手が尋常でない冷たさを伝えて、雅久は目を見開いた。次いで、もたれかかった未咲の背中もまた冷え切っていることに背筋が震えた。


「未咲ッ!」


 未咲の肩を揺さぶった。動揺が声に滲んで、それが余計に雅久を動揺させた。肺の裏側が酷く痛む。未咲の手をぎゅっと掴むと、しっとりと濡れた指は凍っていると思わせるほど冷たく、血の巡りが止まっているのではないかとぞっとした。雅久は自身の熱を分け与えようと必死に肌を押し当てた。身体と身体のわずかな隙間さえ危機感を煽る。

 小さく唸り声を上げて、未咲が薄く目を開いた。焦点の合わない虚ろな目が睫毛の下に見え隠れして、雅久は焦燥と不安で胸を焼かれた。


「……て」


 ぼそり、と未咲が何かを言った。雅久は未咲の口元に耳を寄せてどんな声も聞き逃さないよう神経を尖らせる。


「……御神木……連れ、て……いって」


 途切れ途切れに聞こえた言葉に、雅久はすぐさま真神の腹を蹴った。ぐん、と真神が駆け出し月愛珠が導く先へと向かう。未咲は再び瞼を下ろしてしまった。雅久はぎり、と歯を食いしばる。

 月が赤く染まった。けれど、まだ何者にも襲われていない。奇妙なほどに人の気配も怪異の気配もないのだ。だというのに、未咲は見えない何かから攻撃を受けている。目に見えないものからは未咲を守れない。雅久は何も出来ない自分が歯がゆくて気が狂いそうだった。


「くそっ」


 荒々しく吐き捨て、雅久は眼前に広がる赤い闇を睨み付けた。

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