27-6 未咲の夜

 闇が首筋を撫でた気がした。


 未咲はぞくりと背筋を震わせ、身体が痺れるような恐怖をまとわせた状態で目を覚ました。横向きで眠り敷き布団に面していないからか背中が心許ない。背後から何者かがじわじわと迫ってきているような感覚が焦燥と不安を呼び寄せた。未咲は布団の中で膝を抱えぎゅっと縮こまった。


 この身がすくむような不安感は何だろう。未咲は強く目を瞑ってその正体を探った。


 鬼となった雛夜を迎えに行くのも、上手くいくかわからなくて怖い。雛夜の怨念は凄まじいものだった。そして、その怨念が怨念を呼び、雛夜の内に入り込んだ悪意もまた、身の毛もよだつほどにどす黒く混沌としたくらい感情で。


 雛夜は未咲に気付くことなく、未咲を殺そうとするかもしれない。再び大蛇などの怪異が雅久や真神を傷つけるかもしれない。わたしは月夜見から継いだ力を使って、彼らを守ることが出来るのだろうか。未咲は何度も脳裏に彼らが傷ついた姿を浮かべてしまい、その度に喉が絞められるようだった。


 だけど、違う。今まさに未咲の心を犯そうとしている不安は、それとはまた違うものだと未咲は感じていた。


 常に首に掛けている月愛珠げつあいじゅ――雛夜に教えてもらったペンダントの石の名前だ――を握る。すると、未咲を慰めるように月愛珠が蒼い光を淡く放った。瞼越しに感じた光の存在に、未咲はそっと目を開ける。優しい光で暗闇を払う月愛珠が視界に入り、やっと息を吐ける心地だった。

 その時、誰かが未咲の頬に触れた。


「――ッ!」


 ひやりとした感触にぞっとした。ばくばくと心臓が騒ぎ立てる。出掛かった悲鳴を喉の奥に押し込めた未咲は月愛珠を握る力を強めた。驚愕と恐怖に見開いた目では瞬きさえ忘れてしまう。


 今、誰がわたしの頬を撫でたのだろう。こんな悪寒のするような感触は、雅久でもなければ、大山祇神おおやまずみのかみでもない。では、誰が。


 未咲が眠る部屋は大山祇神の屋敷内にある部屋だ。大山祇神が屋敷への侵入を許していない者は立ち入ることが出来ない筈。そもそも、大山祇神が招かない限り、この屋敷の前にさえ辿り着けないのだ。

 ふと、心臓が熱くなった。びくりと身体を震わせ、自身の胸元に触れた。すぐに、未咲の中の雛夜が反応しているのだとわかった。

 頬に触れていた指が、つつ、と頭へと滑っていく。未咲は目を瞑ることも出来ずに、ただ身体を強張らせその感覚に意識を集中させた。いや、強制的に集中させられた。


 振り向けば、正体がわかる。


 未咲はごくりと喉を鳴らした。此処でやり過ごすより、振り返って背後に潜む何者かの正体を暴いた方が良いのではないか。幸いなことに此処は大山祇神の屋敷だ。きっと、何かあれば雅久や大山祇神、真神だって助けてくれる。一度も攻撃をしたことはないけれど、月愛珠だってあるのだし。


 覚悟を決め、未咲は勢いよく寝返りを打った。しかし、視界には闇が広がるばかりで何もない。未咲に触れていた何かも消えてしまった。呆気に取られた未咲は脱力し、わずかに浮かせていた身体を敷き布団に沈めた。目を瞑り、はあ、と溜め息を吐き出す。

 何だったんだろう、と瞼を上げ、次いで視界に飛び込んできた影に目を見開いた。いや、影などではない。ぼんやりとした光に包まれた人間の両膝が目の前にある。一瞬にして動悸が激しくなった。


「だ、だれ」


 舌足らずに訊ねると、頭上で笑みを漏らす気配を感じた。未咲は誰かの身体を辿って顔を上へと動かした。光沢のある白い衣服、豊かな胸、細い首筋に艶のある長い黒髪、鮮やかな赤い唇、すっと細く筋の通った高い鼻、そして、星を散りばめた夜の海のような瞳――。


「月夜見」


 未咲の唇から冷え切った声が零れ落ちた。月夜見は未咲を見下ろし美しい微笑を浮かべた。未咲はその笑みの裏側に月夜見の残忍さを感じ取り恐怖におののいた。自身を律するように唇を噛み、月愛珠を胸元に強く押し付ける。

 雛夜の夫を奪い、子どもや雛夜の命までをも奪った、正真正銘の略奪者。未咲は怒りで頭が熱くなっていくのを感じた。月愛珠を握る拳が小刻みに震える。


 しー。


 月夜見が愉悦を含んだ瞳を細め、唇に人差し指を押し当てた。歯と歯の間から吐き出される息が闇夜に響く。

 月夜見が未咲に向かって手を伸ばした。未咲はびくりと肩を震わせ、身体を強張らせた。未咲の目は近づいてくる月夜見の手に捕われ、呼吸さえ忘れた。指が、未咲の額に触れる。

 触れ合った肌から、未咲の中に冷気が染みこんでくるようだった。


 ――嫌だ。


 身の毛もよだつ不快感が未咲を襲った。得体の知れない無法者が、未咲が大事に守り育んできた花を踏み潰していく感覚。足元に咲いた小さな花など歯牙しがにもかけない傲岸不遜ごうがんふそんな女が、未咲の心を我が物顔して掌握せんとしている。そしてそれ以上に、透明であたたかな膜に包まれたような、温い海に浸り心地良い波に柔く揺蕩たゆたっているような甘美な安心感が嫌だった。額からは確かに冷たいものが流れ込んでくるのに、じんわりと身体の外側から暖められて身体が弛緩していく。その矛盾が、酷く不快だ。


 ――こんな女、大嫌いだ。


 未咲はギリ、と奥歯を噛んだ。こんな女に、負けてやるものか。力が入らない身体で、未咲は自身の手のひらに爪を立てる。痛みで脳を刺激し、意識を保とうとした。しかし、抵抗虚しく、ぐっと手のひらに押しつけていた指の感覚が遠くなり解かれていく。瞼が重い。未咲を侵食する冷気は血のように身体中を巡っていく。


 瞼が重くなり、視界を閉ざした。未咲は意識を失う前に、頭の奥のまた奥の方で、かすかな光を見た気がした。

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