27-5 ある男の夜
月が赤く染まる日の前夜。轟々と風が吹き荒れる夜であった。
男は暴風に煽られながらも、家の屋根に立てられた白羽の矢を抜き取った。矢を抜こうと
歯を食いしばって屋根から降り、男は走り出す。愛する女との間に産まれた愛する子どものためならば、なりふり構ってなどいられない。
男の行く手を遮るように、暴風に雨が混ざり始めた。ちらつく程度だった雨は瞬く間に激しくなり、男の身体を突き刺す。男は全身にぐっと力を込め、男を押し戻そうとする暴力的な雨風に抗った。
曇天の空には月の姿は見えない。
時折雷鳴が響き渡る。男が足を前に踏み出す度に雷は空を引き裂き男への警告を轟かせた。雷に照らされた篠突く雨は白い檻となって男を閉じ込めんとする。
荒れ狂う夜の海に沈められたような心地だ。山々に囲まれた村に生まれた男は海に入ったことなどなかったが、そう思った。
男は平衡感覚を失いそうになりながら、死に物狂いで進んだ。数十年暮らしている村ならば、視界を奪われようとも何とか歩みを止めずにいられる。
娘の代わりに、あの少年を。
男は自分の娘を大層可愛がってくれた少年を脳裏に描いた。少年は美しかった。同姓である男から見ても少年の目鼻立ちは整っており、太陽に照らされると銀色に輝く灰色の髪と、夜の海に星を浮かべたような紫水晶の瞳、横顔に漂う儚い雰囲気は酷く魅力的であった。少年は人間のみならず動物や植物にまで愛されていた。少年が山に入れば、鳥たちは歌い、草花は踊る。男には少年が神から祝福を受けた人間だと思えた。その容姿も相まって、月夜見様が
あれならば。あれほど美しい少年ならば。
――鬼にも愛してもらえるのではないか。
愚鈍な考えであった。けれど男は、自身の愚かな考えに気づけるほど冷静ではなかった。妻との間に授かった愛してやまない娘を守ること。それだけが男の頭にあった。
生贄を入れ替える。娘の代わりに、あの少年を。
娘を自分の妹のように慈しんでくれた少年のことだ。娘のためならばとその身を捧げてくれるに違いない。あの少年は、いつも、誰にでも、何に対しても、優しかった。それでいい。それがいい。
異界に頼るのはその後だ。何が棲んでいるかもわからない異界に娘を送るなど、死ぬよりマシではあるが、その後の娘の人生を考えたら胸が引き裂かれる。男は、妻と娘とともに幸せになりたかった。
男は辿り着いた少年の家に白羽の矢を突き立てた。
稲妻が走る。一瞬、男の目には世界が赤く染まって見えた。雷鳴が大地を揺るがす。世界の終わりを予感させる激しい震動だった。
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