27-4 雛夜の夜

 鬼となった雛夜はどろりとした黒い泥に沈んでいた。怨嗟の炎が魂を焦がし、雛夜は焼け付く痛みにさいなまれる。生きている内に散々酷い目に遭って、死んでからも苦しみから逃れられないとは、一体自分はどんな罪を犯したと言うのだろうか。神に愛される運命の男を愛し、男との子を産んだことが罪だったのか。それならば、運命は何故自分とその男と引き合わせたのだろう。何故、愛を自分の心に植え付けてしまったのだろうか。愛を知って、愛を奪われ、愛故に憎んでしまった。愛が罪と言うのならば、この世は罪人で溢れかえっている。


 雛夜の傷だらけの魂は、無数の傷口からどす黒い血を流していた。


 此処は地獄だろうか。赦されざる罪を犯した人間は地獄に堕ち業火に焼かれると聞いたことがある。男と子を愛しただけの自分がこのような罰を受けるのならば、これ以上の苦しみを、あの月神と裏切り者は味わうべきだ。

 今すぐあいつらを地獄に堕としてやりたい。想像を絶する痛みに喘いでも決して赦しはしない。魂が擦り切れ消滅するまで苦しむがいい。嗚呼、しかし、消滅さえ口惜しい。輪廻転生も赦さず、永遠に地獄で藻掻もがき続ければ良いのだ。

 闇が雛夜を抱き締めた。冷たい熱が雛夜を包み、ほんの一瞬、雛夜は痛みから逃れられた気がした。


 ――誰?


 雛夜は朦朧もうろうとした意識の中で訊ねた。闇が触手のように雛夜にまとわり付き、ギギギ……と奇妙にも軋む音が聞こえた。


 ギギギ……ギギギギ……。


 次の瞬間、心臓が握り潰されたような強い痛みが雛夜を襲った。生前であれば血を吐き悶絶し、のたうち回っていただろう。


 闇に浸食される。魂が犯される。雛夜には為す術がなかった。


 この世のあらゆる苦痛を味合わされている。雛夜は解放されたいと強く思った。もう誰も怨みはしない。憎みもしない。だからこの苦痛から助けてほしいと。


 何故こんな目に遭うのだ。あたしは、そう、ただ悲しいほどに運が悪かっただけなのだ。見目の美しい夫と結ばれ、それ故に夫を、よりにもよって神である月夜見に奪われ、挙げ句の果てに子どもの命までもを奪われ、非業の死を遂げた。人生とはかくも厳しいものか。悲運も悲運。


 魂がばらばらに崩れてしまいそうだった。けれど、どうせあたしは独りぼっちだし、ここで修復不可能なほどに引き裂かれて跡形も無く消滅しようとも、誰も悲しむことはないだろう。


 そう、誰も助けてはくれない。この手を伸ばしたところで、掴んでくれる者など――。


 きらりと、意識の奥底で何かが光った。雛夜は遠く離れた場所にあった意識を糸を引くように手繰り寄せ、その光を追った。ちか、ちか、とかすかな光が点滅している。混沌とした闇に呑まれまいと抗い続ける小さな光。何だろう、これ。近づくほどに、何かが軋む音に紛れて輪郭のぼやけた柔らかな音が聞こえてくる。やさしくてあたたかい。地獄には到底不釣り合いな音。こんな苦しみに満ちた場所じゃなくて、もっと、そう、お日さまの光が降り注ぐ花畑が似合いそう。


 ――ああ、そういえば、


「わたしと旅をしてみませんか」


誰かがそう言っていた気がする。誰、だっけ。ぼんやりとした人影が浮かび上がってくるけれど、顔は見えない。擦り切れた雛夜の魂では、鮮明に思い出すことが出来そうになかった。


 可笑しい人だ。旅をしよう、だなんて。あたしはそれに、何と答えたのだっけ。いや、何と答えたのだとしても関係ない。あたしは死んだのだ。そして、愛する子どもも。現世から消え去ったのだから、約束を果たせようがない。


 ギギギ……ギリギリ……。


 この耳障りな音は歯ぎしりか。段々音が大きくなっていく。不愉快だ。何もかもが煩わしい。

 雛夜は虚無に身をゆだねることにした。何も考えずにいれば良い。この耐え難い苦痛も、そのうち慣れて感じなくなる。心を殺せば、痛みも、悲しみも、憎しみも、すべて消える。


「わたしは、これからの雛夜さんの人生が喜びで溢れてほしいって思います」


 誰の、声だろう。邪魔をしないでほしい。今、自分を殺そうとしているのだから。楽にさせてよ。どうして、あたしに話しかけるの。どうせ、助けられないくせに。楽にはしてくれないくせに。なのに、


「だって……わたし、雛夜さんが好きですし」


捨てきれない希望が、一滴だけ残っている。

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