24-3 夫婦喧嘩は真神も食わぬ

 朝日が昇る頃、大山祇神おおやまずみのかみの屋敷に戻った未咲を待っていたのは、不機嫌をありありと表情に滲ませた雅久であった。入り口の前で仁王立ちをして腕を組んでいる。


 あの後未咲は寧々が目覚めるまで待ち、戸惑う彼女に事情を説明して――もちろん、雛夜のことは話していない。村人たちに糾弾されていた未咲が目の前に居ることに酷く驚いていた寧々は、それでも未咲の話を真摯に聞いてくれた――帰る彼女を見送った後、颯爽さっそうと現れた真神の背に乗って戻ったわけ、なのだが。


 少し時間を置こうかな。


 なんてことを思って明後日の方向へと身体を捻ると、


「何処へ行くつもりだ」


地面を這うような低い声が未咲を呼び止めた。ひえ、と未咲は随分と情けない声を漏らし肩を震わせた。おそるおそる雅久へと向き直る。残念ながら雅久が怖すぎて真神から降りる勇気がない。


「一応、言い訳を聞こうか」


 そう言ってにっこりと笑ってみせる雅久の何と恐ろしいことか!

 未咲にも未咲なりの言い分があると言えども、十割方自分が悪いと思わされる怒りっぷりである。いや、確かに、あの状況で真神とともに村へ降りたというのは、わたしが悪い、かも。未咲は冷や汗を垂らした。


「いや、あの」

「まずは真神から降りろ」


 ぴしゃり、と雅久が冷たく言い放った。有無を言わせない圧力がかかっている。未咲は頬を引き攣らせた。真神はこの空気を読んだのか、すっと身をかがめた。とても、とても未咲が降りやすい配慮だ。未咲は観念して真神から降りた。雅久がすたすたと早足で未咲に向かってくる。


「未咲」

「はい!」


 未咲がビシリと姿勢を正して返事をすると、雅久はしばし沈黙した。やがて、これ見よがしに大きく溜め息を吐く。


「俺には勝手に行動するなと言ったくせに、お前は勝手に動くんだな」

「あ……」

「……お前を責めたくは、ない。けど、何も言わずに居なくなったら心配するだろう。未咲が俺を心配してくれるように、俺も未咲が心配なんだ」


 途端に、未咲の胸には申し訳ない気持ちが広がった。雅久は未咲から目を逸らして何かを堪えるような、沈んだ表情をしている。よく見れば、雅久の目の下には隈が出来ていた。そうさせたのは、他でもない未咲だ。


「ごめんなさい、雅久。わたし、居ても経っても居られなくて」

「村に行っていたのか」

「……うん」


 未咲は雅久の顔を見ることが出来ず、地面に視線を落とした。雅久の足元だけが視界に入る。わたしだって雅久が何も言わずに居なくなったら心配で堪らなくなる癖に、わたしが何も考えずにそうしてしまうなんて。未咲は自責の念に駆られた。

 無言が続いたかと思うと、雅久の足が未咲の方に踏み出した。未咲が顔を上げようとすると、雅久にぎゅっと抱き込まれた。首元に雅久の吐息がかかってこそばゆい。未咲の胸は早鐘を打った。


「何も、されていないか」


 躊躇ためらいがちに訊かれ、未咲は心臓がきゅっと掴まれた心地になった。村への罪悪感と未咲を案じる気持ちの狭間でぎこちなく揺れている声だった。未咲は雅久の背中をそっと撫でた。


「大丈夫だよ」


 雅久が小刻みに震えているのが伝わってくる。雅久は今まで色んなものを失ってきて、その度に悲しみ、悔やみ、苦しんできた筈だ。失うことを恐れて、拒絶されることが怖くて、誰よりも繊細で優しい人で、他者へ歩み寄ることを恐れた人。そのくせ、誰よりも他者へ心を砕いてしまう人。雅久がそうであることをわかっていた筈なのに。未咲は自身の短慮を悔やんだ。せめて、相談すべきだったのに。


「あのね、雅久。村に行って、鬼についてわかったことがあるの。おじいさんと一緒に聞いてほしい」


 雅久はぴくりと反応し、やがて脱力して息を吐き出した。


「俺はお前を叱りたいんだが」

「うん。本当にごめんね、雅久」

「……はあ。未咲には一生敵いそうにない。どうしてだろう」


 雅久が心底悩ましげに言うので、未咲は思わず笑ってしまった。

 惚れた弱みというものではないでしょうか、お互いに。

 未咲は内心、呟いた。

 雅久は未咲をぎゅっと強く抱き締めた後、身体を離し、眉尻を下げて笑う。その目には確かな熱が込められていて、未咲は頬が赤くなるのを感じた。落ち着きなく目を泳がせ、何か言おうと二、三度口を開けるが結局何も言えずじまいだ。こういう雰囲気でどう振る舞えば良いのかわからず、無駄にそわそわしてしまう。


「戻ったか」


 重厚な声が飛んできて、未咲はびくりとした。雅久が未咲の正面から横に身体をずらし、未咲の視界には屋敷から出てきた大山祇神の姿が目に入った。


「ほれ見ろ、何事もなく帰ってきたではないか」


 大山祇神がやれやれといった風に首を振る。


「男ならもっとどんと構えることじゃな。未咲に呆れられるぞ」

「え」

「え!? そんなことないですから、適当に言わないで下さいよ!」


 真に受ける雅久と、頬を染めて怒る未咲。大山祇神はけらけらと笑った。


「冗談じゃ。そんなに怒るな。雅久も、いちいち落ち込むなよ。面倒臭いぞ」

「大山祇神様?」


 未咲がわざとらしく笑みを浮かべ怒気を含ませた声で大山祇神を呼ぶと、大山祇神は肩を竦めた。


「機嫌を直せ。……未咲は話したいことがあるんじゃろう。茶番はこの辺りにして、話を聞こう。さっさと中に入れ」


 茶番をさせたのはどこのどいつだ。未咲はじとりと大山祇神を睨んだ。しかし、ここでどうのこうのとやりあっても仕方がないので、言いたいことのすべてを息に混ぜて吐き出した。


「行こう、雅久」


 隣で呆然と立ち尽くしている雅久の手を取って、未咲は歩き出した。我に返った雅久が慌てた様子で何かを言っているが、聞こえない振りをした。些細なことで狼狽うろたえてしまう雅久が愛しくてならないけれど、すべてが解決するまでは、溢れんばかりの気持ちは抑えておこうと思うのだ。まだ、手放しで愛を伝えられる状況ではないのだから。その代わり、絡め合った指先から、このちっぽけな身体では抱えきれないほどの愛が伝わって、雅久の身も心もあたためてくれるようにと強く願った。

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