24-2 迎えに行くね

 暫くして、背後に何者かの気配がした。未咲は怒りも忘れて息を呑む。静かに佇む気配が誰のものか、未咲には何故かわかった。


「……寧々さん」


 未咲はぐっと足に力を入れて立ち上がった。振り返ると、悲しげに眉尻を下げて微笑みを浮かべる寧々が月明かりに照らされていた。


「ううん。雛夜さん、なんだね」


 寧々――否、雛夜は、何も言わずにこくりと頷いた。未咲は鼻の奥がツンとして、すぐさま泣いて雛夜に縋ってしまいたいと思った。赦しを乞いたくてたまらない。けれど、未咲には赦しを乞うことすら赦されないだろう。雛夜を陥れたのが未咲の先祖であっても、未咲ではないから。それに、謝ったところで、何も終わりはしない。雛夜の苦しみが消えるわけでも、未咲の罪悪感が消えるわけでもない。何も、ない。

 自己満足のために、一時の救いを求めるために、謝ることはしたくなかった。この罪の意識は、きっと未咲が墓場まで抱えて持って行くべきだ。


 ――やっと、会えた。


 雛夜の唇は動いていない。けれど、その声ははっきりと、未咲の耳の奥に響いた。たった六文字の言葉に、果てしない時が凝縮されている。未咲は涙を堪えるために唇を噛んだ。


 ――もう一人のあたしも、ずっと、あんたを待ってる。


「え……?」


 ――きっと、連れて行ってね。


 雛夜は未咲に歩み寄り、両手を差し出した。手のひらに乗せた簪。その簪には、月の模様が彫られていた。未咲はハッと目を見開き雛夜を見た。雛夜は穏やかに微笑んでいる。


「これって」


 ――絶対、なくさないで。


 未咲はかすかに震える手で簪を受け取った。未咲の手元に、太陽と月の簪が揃う。手にひらに浮かぶ太陽と月の姿に、未咲は不思議な気持ちだった。


「雛夜さん……“もう一人のあたし”って?」


 思い当たるのは、鬼であった。夢の中で、雛夜は己の怨念とそれに寄ってきた者どもに取り憑かれ鬼と化していた。けれど、この世界に存在する鬼が雛夜ならば、今未咲の目の前にいる雛夜は何者だと言うのだろうか。

 雛夜は未咲の疑問を感じ取って、柔らかく目を細めた。


 ――あたしは、和魂にぎみたま。そして“あれ”は、荒魂。ふたつでひとつ。対となる霊。

「にぎみたま」

 未咲はオウム返しに呟いた。聞き慣れない言葉だ。和魂にぎみたまと、荒魂あらみたま

 和魂が目の前にいる雛夜。

 荒魂が鬼となった雛夜。

 言葉の意味がわからなくとも、何となくわかるような気がした。


 ――どちらもあたし。迎えに行って。


「雛夜さん」


 ――お願いね。


 雛夜の身体が淡く輝き始める。未咲はその様子を呆けたように見つめた。雛夜と話したいことは沢山ある筈だった。だというのに、話すべき言葉をすべて過去――もしくは、未咲が見ていた夢の中――に置いてきてしまったのだろうか。唇は薄く開くばかりで、言葉を紡ぐことはなかった。

 何て呆気ない別れだろうか。雛夜は言いたいことは言ったと憑き物が落ちたような表情をして未咲を見つめている。


 ――別れじゃないよ。ただ、少し、疲れてしまったの。未咲の中で、休ませてほしい。


「わたしの、中?」


 雛夜から滲み出た光が宙に浮かび、ひとつの光の球となった。その光球はふわふわと未咲の前に泳いでくる。未咲は誘われるように光球へと右手を伸ばした。指先が光球に、触れる。


 あたたかい。


 そう思った瞬間、光が弾けた。無数の光の粒は辺りをほのかに照らしたと思うと、未咲の胸へと吸い込まれていく。す、と未咲に溶けていく光の粒は、未咲の内側をじんわりと温めた。


「雛夜さん、これって……」


 何だったのか訊こうと雛夜に目を向けた時、雛夜の身体から力が抜けた。ふらりと倒れる雛夜を、未咲は慌てて抱き留めた。どたっと尻餅をつき、痛みに顔を歪める。


「ひ、雛夜さん?」


 倒れた雛夜の顔を覗き込み、未咲は息を呑んだ。

 顔が違う。

 未咲がこの村で仲良くなった寧々、そして、過去の村で出会い人生の末路まで見届けた雛夜と、未咲の腕の中で眠る女性はまったくの別人であった。未咲は困惑して、女性の顔を見つめることしか出来なかった。彼女から雛夜の気配は感じられない。寧ろ、雛夜の気配があるのは――未咲の胸の辺りだ。


 雛夜はこの女性に憑いていたのだろうか。もし、未咲が見ている女性が彼女の本来の顔なのだとしたら、今まで他の村人たちは気付かなかったのだろうか。村の人口はそう多くない。関係も密で、お互いが助け合って生きている。未咲が十九年間生きてきた世界ではあまり見られなかった他人同士の関係性だ。それなのに、寧々の変化に誰も気付かないのはおかしい。まさか、随分と前から雛夜は寧々に取り憑いていたのだろうか。それとも、


「わたしにだけ雛夜さんに見えていたの、かな」


誰にともなく呟いて、それは胸の奥にすとんと落ちた。未咲と関わる時だけ、寧々に憑いたのか。あるいは未咲にだけ――そう、月夜見の霊力を受け継いでいるからこそ――雛夜が視えていたのか。


「“やっと、会えた”」


 雛夜の嬉しくてならない声で伝わってきた言葉を唇に乗せた。胸の内がじんわりと温かくなる。未咲の中の雛夜が反応してくれたみたいで、切なくて、嬉しくなった。未咲もずっと、雛夜を待っていたと思った。この時を待ちわびて、十九年間生きてきたような。やっと、自分の片割れを見つけたような。雅久への恋慕とはまた異なる気持ちが、未咲には愛しく思えた。


「迎えに行くね。待ってて」


 水滴が地面に落ちる。雨が降ってきた。あたたかな雨が、ぽつり、ぽつり、と地面を濡らした。

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