23-5 そして鬼は生まれた

 月夜見の背後には、これまた美しい男性が控えていた。おそらく、雛夜の元夫だ。雛夜の目線が彼を捉え、どくりと心臓が大きく動いたのを未咲は感じた。じわじわと焦がれるような感情が足元から上ってくる。雛夜は胸に抱いている赤ん坊をぎゅっと抱き締めた。


「産んだのか、雛夜」


 月夜見の背後にいた男が少し前に出て、雛夜に言った。雛夜は胸を突いた痛みに目を見開いた。突かれた胸に穴が空いて、ごぽりと心臓が溢れ落ちたのではないかと思った。いっそ、そうであってほしかった。「産んだのか」と事実を確認するように言った男の声には、落胆の色が滲んでいた。「産んだのか」ではない。「産んでしまったのか」と言いたかったのだ、この男は。


 それがどんなに残酷な言葉であるか、男はわかっているのだろうか。わかっているから、「産んだのか」と隠しきれない感情を滲ませた声で、言葉だけを濁したのか。わかるに決まっているだろうに、何と愚かな男か!


 ああ、嗚呼! この男はすべてをなかったことにしたいのだ! この雛夜との日々を! 重ねた時間を! 二人の間に産まれた赤ん坊でさえも!


 砂が降り積もるように少しずつ蘇ってきていた男への情は、瞬く間に憎しみへと変貌した。黒い炎は雛夜を激しく燃やし、身体中を熱くさせた。


「醜いものよ」


 何の感慨もなく、月夜見がぽつりと吐き出した。雛夜は見開いたままの目を月夜見にぎろりと向けた。

 そもそも、この女が男を奪わなければ。雛夜はぎり、と歯を食いしばった。きっと、夫と生涯をともにすることが出来ただろうに。よくも。よくも、人の男を奪ってくれた、と頭に浮かぶのは怨み言のみ。村を加護したことに対する感謝の念など、欠片もありはしない。せめて二度と――月夜見に関しては一度でも――自分の目の前に現れないでくれたなら違っただろうに。


「我は赦せぬ。お前に我以外の女がいたなどと」

「月夜見様」


 月夜見の言葉に、男が恋慕を乗せた熱っぽい甘やかな声で女神の名を呼んだ。雛夜は吐き気がするようだった。


「あろうことか、子も出来ているとは」

「申し訳ありません」


 “申し訳ありません”? 

 嗚呼、本当に、この男はほんのわずかでもあたしに心を向けてはいないのだ。雛夜は嘆いた。いや、嘆きは既に消えていた。男に対するすべての感情が憎しみへと昇華されている。

 おぎゃあ、と雛夜の腕で眠っていた赤ん坊が泣き声を上げた。月夜見が忌々しそうに美麗な顔を歪める。雛夜は赤ん坊を守るように身体をよじり、月夜見と男から赤ん坊を隠した。


「なにゆえ、こちらに来られたのですか」


 月夜見と男への恨み辛みが声に滲んでしまうのを恐れ、雛夜は慎重に訊ねた。早くこの場から立ち去ってほしい。そして二度と、会うことのないように。姿さえ、視界に映らないように。それだけが雛夜の望みだった。男はいなくても良い。こんな男に未練などあるものか。赤ん坊と二人で、生きていくと決めたのだ。男を奪った上に、将来の生き様までとやかく言われる筋合いは、ない。


「貴様、ヨリマシか」

「……は」


 雛夜の問いかけの答えとは言い難い返答に、雛夜は思わず声を上げた。頭の遠くの方で、赤ん坊の泣き声が響いている。


「醜いものが寄り憑いている。醜悪な姿で我の前に現れるとは無礼な者よ」


 貴様が現れたのではないか、と雛夜は内心吐き捨てた。


「浄化せねばな」


 月夜見がにやりと笑った。途端、雛夜の背筋が凍った。村を加護する女神のものとは到底思えない、ぞっとする笑みであった。

 月夜見が雛夜に手を伸ばす。雛夜はその光景が酷くゆっくりに見えた。男は月夜見の後ろで傍観している。雛夜を見てばつの悪そうな顔をしたと思うと、目を背けた。

 眩い閃光。雛夜の視界が奪われる。次の瞬間、顔中に焼け付く痛みが襲った。


「ああああああッ!!」


 獣のように吼えた。慟哭どうこくであった。痛みにもだえ、腕から赤ん坊が転げ落ちたことにも気付かない。


 痛い痛い痛い熱い熱いあああああ……ッ!


 自分が声を発しているのかそうでないかも認識出来ない。ただひたすらに痛みを浴び涙を流し、絶叫した。喉が張り裂けそうであった。

 雛夜の顔は、焼きただれていた。何かを浴びせられた。酷く熱い液体であった。しかし、それが何であるかを考える余裕は微塵もなかった。


「嗚呼、何と醜い女だ。これでもう我らの前にその醜悪な面を晒そうなどとは思わないだろう」


 愉悦を含んだ声だった。


「とく苦しんで死ね」


 月夜見と男が去っていった。雛夜はそれに気付くことなく、ただ悶え苦しんだ。だがそれでも、すぐに赤ん坊のことを思い出し、涙をぼろぼろと溢しながら、赤ん坊を探した。痛みで目を開けることすらままならない。それでも必死に探し、やがて赤ん坊の身体に触れた。


「あ、嗚呼……」


 死んでいる。

 それだけはわかった。

 泣き声も聞こえない。ぴくりとも動かない。呼吸音も、脈も、何も。赤ん坊に触れた手にこびりついたぬるりとした感触は何か、考える前にわかった。


「おのれ……おのれえええええッ!!」


 春が近い、宵であった。

 ある女が血を吐き、血涙を流しながら、月の女神とかつて愛した男を呪った。女の内でうごめいていた悪意が女を喰らい、女もまた悪意を喰らった。

 女の身体が触れた地面の奥底から、さらなる闇が無数の手を伸ばしてくる。


 ――恨めしや。憎き男の憎き子よ。殺してくれよう。さあ、さあ。


 地獄へ誘う声が聞こえた。何もかもを奪われた女にとって、それは甘美な誘惑であった。

 黒く染まる意識の中で、底知れぬ闇に手を伸ばす。 


 春が近い、宵であった。

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