23-4 いのち
場面が変わった。おそらく、前の場面から幾分時間が経った。その頃、雛夜の身体には徐々に異変が起こり始めていた。雛夜の身体に取り憑いている――という表現が適しているかは定かではないが――未咲もまた、その異変を感じ取っていた。
身体が重い。時折、身体が自分のものではないように思える。思い通りに動かず、身体の持ち主である雛夜の命令に身体が従わない。何者かに妨害されている感覚だった。雛夜が内に秘めていた月夜見や元夫に対する憎悪や悲しみといった負の感情が何者かを誘い、その者が雛夜の中に入っていくのだ。そしてその者は、雛夜の
日に日に、雛夜の身体を操られる感覚は大きくなり、身も心も限界に近づいていることを未咲は悟った。
魂が黒に染まっている。未咲にはそう感じられた。元々の魂が白色だとすれば、その白が残っているのはほんの一点のみ。悪意が悪意を呼び込み、雛夜の魂はもはや雛夜のものではない。
わずか、残っている心は。
腹の中の子どもに対する愛情。それだけが雛夜に残された心。その心だけで、雛夜は雛夜として生きているようなものだった。
けれど、雛夜は不安に思っていた。自分の身に宿る悪意が赤ん坊を取り殺してしまわないかどうか。あるいは、赤ん坊までもが悪意に浸り、悪意に満ちた身体で産まれてしまわないかどうか。
産まれる前に死んだ方が幸せなのではないか。雛夜が何度もそう考えたことを、未咲もまた知っている。だけれど、それを実行出来ないことも知っていた。雛夜が赤ん坊を愛しているからだ。死んだ方がましだと思おうが、我が子を殺すことは出来なかった。当然だと、未咲は思う。
赤ん坊は、雛夜が元夫と愛し合った証だ。確かに愛した男と重ねた時間があったのだと示す、最後の砦。男との未来が消えてしまったとしても、変わらぬ事実。雛夜は男に裏切られても、男のことを憎みきれなかった。男を愛した時間を、男に愛された時間を、忘れることは出来なかった。
それに、赤ん坊に決して罪はないのだ。どうして、殺すことなど出来ようか。雛夜は葛藤の末に、赤ん坊を殺すことも、そして己を殺すこともしないと決めていた。きっと赤ん坊共々死んだ方が楽になれるのだろう。それでも生きることを選択した雛夜を、未咲は強い女性だと思った。
ある冬の寒い夜。しんしんと雪が降り積もる中、雛夜は赤ん坊を産んだ。雛夜は涙ぐんで赤ん坊の誕生を喜んだ。魂の綺麗な部分が、いや、黒に汚染されていた魂でさえも、その時は震えるほどに喜んでいた。
雛夜が産んだ赤ん坊は、雪のように白い肌と、同じく真っ白な髪色をしていた。暗い夜は部屋を照らす火の色と影が混ざり合って橙色や灰色にも見えたけれど、その様子はとても儚げで、雪が地面に染みゆくように、今にも消えてしまいそうに思えた。
この子を守らなければ。この子とともに、これから生きていこう。雛夜はそう決意した。その決意と赤ん坊への愛情が、雛夜を侵食する悪意を少しずつ祓っていくようだった。
赤ん坊との暮らしは大変なことの方が多くあったが、それでも雛夜は心穏やかで居られた。小さな身体で懸命に生きる小さな命が愛おしく思えた。この子の成長を最期の時まで見守っていきたいと、そう願うことが出来た。
――しかし、所詮つかの間の幸せであった。
「お前が雛夜か」
それは突然現れた。
未咲は自身の心臓がばくばくと騒ぎ出すのを感じた。雛夜も同じだったかもしれない。けれどその鼓動は未咲のものであった。
初めて見た。
未咲はそればかりを思った。そう思ったきり、言葉は何も、浮かんでこなかった。
美しい女性であった。いや、女神か。今目の前に現れた女神が、月夜見なのだと直感した。夜を映したような髪に炎が反射して煌めく星が浮かんでいる。絹のように滑らかで透明感のある肌。弧を描く艶やかな赤い唇。光沢のある布地に包まれたすらりとした体躯。ちらりと覗く足もまた綺麗な形をしていて、未咲が思うに「完璧な女性」であった。瞳にもまた星が散りばめられている。夜の海のように凪いでいる紫水晶には長い睫毛がかかり、陰りのある瞳が色気を漂わせていた。
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