23-3 別れの宵

「すまない、雛夜」


 ぼんやりとした視界の中で、男が悲痛な表情で絞り出すように言った。途端に胸がずきりと酷く痛んだ。無意識に胸を押さえようとすると、身体が動かないことに気付いた。そうして未咲は、ここが夢の中であると知る。


 ――目の前の男の人は、誰?


 何処かで見たことがある顔だった。一体何処で見たのか記憶を掘り起こそうとして、すぐに思い出した。ああ、この人は月夜見が一目惚れした美しい男性だ、と。


「月夜見様が、この私を望まれたのだ」


 男は熱に浮かされたような顔で言った。隠そうとはしているのかもしれない。けれど、その目に込められた甘さを含んだ熱は、明らかに未咲に向けられたものではない。未咲は絶望感を覚えた。いや、正しくは未咲ではない。この光景を見ているのも、この感情を抱いているのも、未咲が憑依している女のもの、だろう。そしてその女は、雛夜だった。


「すまない雛夜。これも、村の安寧のためだ」


 体よく言われている、と感じた。本当はこの男も、月夜見という女神に心奪われたに違いない。雛夜という妻を持っていながら、神ではあるが紛れもなく別の女に、あろうことか懸想したのだ。

 そしてこの男は、雛夜に申し訳なさを感じながらも、自分の妻として雛夜を愛する気持ちは既に持っていない。雛夜への愛しさが残っていれば、此処にはいない女神を想ってやまないという表情を欠片でも見せられる筈がない。少しでも雛夜をおもんばかる気持ちが残っているのならば、男はそれを見せるべきではなかった。 

 裏切られた。雛夜は焼けただれる思いがした。せめて、夫の心だけは自分のものだと思いたかった。それならば、神に夫を奪われた悲劇の妻でいられたというのに。いずれ、心も離れていくだろうとしても。


「わかりました」


 雛夜は沸き立つすべての感情を押し殺して答えた。それが男の妻として出来る最後の献身であった。雛夜の返事を受け取った男は頷き、雛夜に背中を向けた。妻ではなくなった雛夜とともに過ごす夜など存在しない。これをもって、二人は他人となった。


 いつもと変わらぬ、穏やかな春の宵であった。


 その後、雛夜の腹の中に命が宿っていることが発覚し、雛夜はさらなる絶望感と憎しみを抱くようになった。雛夜のくらい感情には果てがなかった。未咲は今にも感情の濁流に呑まれてしまいそうで――そう、未咲の心にも夫を奪った月夜見と裏切った夫への憎しみが積もり積もって、少しでも気を抜けば瞬く間に雛夜と一体となり心が焼き切れ自我を失ってしまいそうだ――雛夜が自分の足で立っていられるのが不思議でならなかった。今の未咲は雛夜と心を共有している筈なのに、雛夜の考えていることがわからなかった。


 あたしの可愛い子。どうかあなただけは無事に産まれておいで。


 ふいに頭の後ろのずっと遠くの方から雛夜の声が響いてきた。愛と哀に満ちた声。未咲は聞いてはいけないものを聞いている気がして耳を塞ぎたくなった。これは雛夜だけの気持ちだ。だけど、誰かとその悲しみを分け合って雛夜の心を慰めてほしいとも感じた。矛盾した雛夜の声と、矛盾した未咲の想い。


 未咲は目を逸らしたい気持ちを抑えながら、雛夜の視点で雛夜の記憶を見続けた。そしてその中で、雛夜はこの村で巫女のような役目を負っているのだということを知った。沢山の火が灯された、所謂いわゆる「儀式」を行う神事場で、雛夜は巫女と思わしき女性たちに囲まれ正座をしていることが多かった。儀式が始まったと思うと、雛夜でも未咲でもないモノが雛夜の中に入り込み、雛夜の身体を動かしたり口を動かし声を発したりした。最初は何が行われているのかわからなかったが、雛夜を取り巻く人間たちの会話を注意深く聞けば、雛夜が「ヨリマシ」と呼称されていることに気付いた。


 「ヨリマシ」とは何のことだろうか?


 そう疑問を浮かべつつ、未咲は夢を見るように雛夜の記憶を見続けた。

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