22-5 平和の犠牲

 とうとう、未咲の目から涙が伝った。雛夜は泣いていないのに、話を聞いているだけの自分が真っ先に泣いてしまうなんて失礼だと思った。同情だと思ってほしくない。同情には違いないのだろうけれど、それがさらに雛夜を傷つけてしまうことはわかりきっていた。だから絶対、わたしはその心を殺さなければならなかったのに。

 雛夜は黙って涙を流す未咲を見て、吐息で笑った。


「あんたが泣いてどうするの」

「ご、ごめ……っなさい」


 すぐに泣き止まなければと未咲がごしごし目を擦ると、雛夜が小さく吹き出した。未咲の胸はずん、と海の底に沈んでしまう。申し訳なさすぎて消えてしまいたい。そんな気持ちでいっぱいだった。だけれど、申し訳ないと思うことさえ重罪だとも思った。月夜見の子孫であるわたしが、月夜見の記憶の中で雛夜の夫に惚れて奪ってしまったわたしが、あろうことか贖罪しょくざいの気持ちを抱いてしまうなんて。でも、こんな時にどんな感情を持てば正解なのかも、わからない。


「あたし、この子を一人で育てられる自信がなくてね。もちろん、周りの人たちも助けてくれるだろうけどさ。……やっぱり、心の問題なの」

「……うん」

「憎しみとか、悲しみとか、寂しさとか、嫉妬とか……そんな気持ちを持ったままこの子を育てて、この子までその感情に染まってしまったらと思うと、背筋が凍るほど怖い」

「――」


 何と答えれば良いのだろう。未咲は手の甲に立てていた爪をさらに食い込ませた。

 愛しい人との間に生まれた子ども。この世で一番の宝物のような子どもが雛夜のお腹から出てきた時に、愛しい人は傍にいない。それどころか、月夜見という女神と契りを交わしている、だなんて。心穏やかで居られる筈がない。その心を慰める術も、簡単には見つからないだろう。月夜見を信仰する村の人々が彼女を支え慰められるとも、未咲には思えない。それどころか、震える足で懸命に立って生きようとしている雛夜のことを言葉という銃弾で撃ち抜き、崖から突き落とす羽目になるのではないか。そうなれば、雛夜は崖下の濁流に呑まれ、二度と現実に戻ってくることなく、身も、心も、冥府へと明け渡してしまうのだろう。


「いいや、それも、違う。あたしは、あたしがこの感情に呑まれてしまうのが怖いんだ」

「雛夜さん……」

「一人じゃないっていうのに、独りなんだ」


 すべてを諦めたように言う雛夜に、未咲はたまらなくなって立ち上がった。戸惑ったように未咲を見つめる雛夜の傍に歩み寄り、地面に両膝を立てて、未咲は雛夜を抱き締めた。いいや、抱きついた、との方が正しいかもしれない。耳元で息を呑む音が聞こえた。

 何かを言いたい筈なのに、未咲は何も言えなかった。胸に渦巻く様々な感情を言葉にするのは難しくて、とにかく雛夜が生きていられるように、雛夜の命を繋ぎ止められるように、強く抱き締めていたかった。

 くさびになりたいと思った。雅久に向けるものとはまた違う、“愛”であった。

 雛夜は躊躇ためらいがちに未咲の背中に腕を回して、そっと撫でた。まるで雛夜が未咲を慰めているようだ。自然と、二人は笑みを漏らしていた。


「あんた、泣き虫だね」

「雛夜さんも泣いて良いんだよ」

「そうだねえ……今夜は……今夜だけ、泣いちゃおうかな」


 月夜見に加護されているこの村で、月夜見にどうしようもなく切ない感情を抱いた人が泣いている。未咲は雛夜を抱き締める腕の力を強くした。

 平和の下には犠牲がつきものであると、聞いたことはあるけれど。赦さなければいけないのだろうか、この犠牲を。耐えなければいけないのだろうか、愛する人を奪われた悲しみを。どこかで耐えなければいけない激情は、本当に、耐える必要があるのだろうか。

 未咲には一生、答えを出せそうにない。

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