22-4 傷

 その後、家に戻ってきた雛夜と夜食をいただき、未咲は早速先ほど気になったことを訊こうとした。


「あの、雛夜さん」

「未咲ってさ」

「へ?」


 未咲が中途半端に口を開いた時、雛夜が未咲の言葉を遮るように話し出した。未咲の斜め前に座って焚火を見つめている雛夜の顔には哀愁が漂っているように見える。


「愛する人が、いるでしょ」


 確認を取るように、雛夜が言った。未咲は雛夜の陰のある表情を見て不安になった。無意識のうちに息を潜めてゆっくりと頷く。はっきり言うのは恥ずかしいと普段の未咲ならば思うのかもしれないが、そんな軽い調子の「恋バナ」が始まるとも思えない重く暗い雰囲気だ。胸がざわめく。


「あたしにもいるの」


 どくん、と未咲の心臓が大きく鳴った。


「その人のためなら、すべてを捧げられるってくらい、大切な人」


 雛夜の視線の先には炎しかない。しかし、その目には愛おしい存在がありありと映っているとわかるほど、夜空に光る熱い星が浮かんでいた。


「その人も、あたしを愛してくれたよ」


 雛夜は微笑を浮かべ、そっと自身の腹を右手で撫でた。その仕草を見て、未咲は雛夜の腹には生命が宿っているのだとわかった。


「なのに」


 言葉の先は、続かなかった。流れ始めた不穏な空気を感じて、未咲は落ち着きなく自身の手をいじった。このまま雛夜の話を聞いてはいけない予感がした。脳内に警報が鳴り響く。聞きたくない。きっと、聞いたら後悔する。でも、自分こそが雛夜の話を聞かなくてはいけないという確信もある。

 矛盾した思いが交錯した。


「――月夜見が、奪ったんだ」


 確かな憎しみが、込められていた。

 未咲は呼吸を奪われた。空唾を飲み込み、首を絞めていた見えない何かを振りほどくように小さく咳をして。それから、深く息を吸い込んだ。


「わかってるよ。神様には逆らっちゃいけない。ただでさえ、この村を守って下さる神様だ。こんなことを言えば、あたしはこうさ」


 雛夜は親指を立てて首を切る動作をして見せた。未咲は何も言えないまま、動き続ける雛夜の唇を見つめた。


「でもね、あたしは人間だ。人を愛する心を持ってる、人間なんだよ。それを、神様が望むからって自分の夫を差し出してさ、それでも笑って生きられると思う?」


 未咲は目の奥が熱くなるのを感じた。泣くまいと唇を噛んで、ふるふると頭を振った。雛夜はそんな未咲を見て、泣き出しそうな顔をして笑った。


「あたしには無理だ。どんなに気丈に振る舞っても、心は誤魔化せない。本当に、困ったものだね。嫌になるくらい、心は正直だ。縛られることなく、自由に、身勝手に、動いてしまう」


 心は、自由だ。自分自身でも制御が出来ないほどに、正直なのだ。心ってやつは。未咲は沈痛な面持ちで頷いた。


「赤ん坊がいるんだ」


 未咲の視界が薄暗くなった気がした。月夜見の身勝手な行動に、こうして全身をずたずたに切り裂かれたみたいに傷ついている人がいる。未咲自身の罪ではない。未咲は雛夜に何もしていない。けれど、それが未咲の罪であると、腹の底に重石を投げ込まれたようだった。


「これからは、いや、これからもずっと、幸せでいられると思ったのに」


 愛しい夫、そして今まさに雛夜のお腹の中で命を育んでいる赤ん坊の父親である人が奪われ、

「神様だから」「この村を守ってくれるから」

そうした理由があるからって、はいそうですかと納得出来るなら、きっとそれは愛ではない。


 神だからって、何でも赦されるのだろうか。未咲は左手の甲に爪を立てた。痛みを感じずにはいられなかった。それでも、耐えられる痛みならば雛夜の痛みには到底及ばない。今すぐに雛夜の抱えている胸を引き裂かれるような痛みを未咲にぶつけてほしかった。

 この傷はきっと、一生残り続ける。いや、きっと、だなんて曖昧な言葉では濁せない。残らない傷など存在しない。人の心に傷がつけば、それは死ぬまでずっと、瘡蓋かさぶたになって、あとを残して、ふとした拍子にじくじくとその人を刺す棘となる。消えることはない。だって、その傷もまた、その人自身なのだから。

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