21-2 痕跡
正芳と文子の家の前から去った未咲は、宗一郎の家へと足を運んだ。前庭に木造の犬小屋があって、その中で熊五郎がすやすやと眠っている。未咲は人知れず安堵の息を吐いた。よかった、熊五郎は無事だったみたい。
宗一郎の墓は、建てられたのだろうか。未咲はきょろきょろと辺りを見回すが、それらしきものは見当たらなかった。正芳の時もそうだったけれど、亡くなった彼らがどこに葬られたかも知らないのは、酷く寂しくて、苦しい。故人へ祈ることも赦さないと言われているようでつらかった。
「何しにきた」
背後から聞こえた低い声に、未咲はびくりと震えた。心臓がばくばくと大きく鳴る。こんな真夜中に、見つかるなんて思わなかった。
「宗一郎、さんに、会いに来ました」
未咲は振り向けないままに言った。ざ、と背後で土を踏む音がする。
「謝れば済むとでも思ったか」
「……いいえ」
「謝っても、息子は死んだ。生き返ることはない」
未咲は意を決して振り返った。未咲をきつく睨み付ける宗一郎の父親――直次郎に向かって、深く頭を下げた。
「……はい。本当に、すみま――」
「謝るなッ!!」
静寂に怒号が響いた。未咲は泣きそうになって唇を強く噛んだ。泣いてはいけない。一番泣きたいのは、目の前に居るこの人だ。
未咲は頭を下げたままでいた。顔を上げられそうにない。まっすぐに、直次郎の目を見られる自信がなかった。彼に見られていると思うだけで身体の芯から震えるようだった。
暫くの間、直次郎の荒い息遣いだけが響いていた。
未咲は、直次郎と会った際には殴られることも覚悟していた。しかし、直次郎は未咲に掴みかかる様子も見せない。もしかすると、未咲の傍に居る真神を警戒して手を出せないだけかもしれないが。考えてみれば、真神だって宗一郎に襲いかかった獣だ。そんな真神と、そもそもの原因である――と、未咲は考えている――未咲が目の前に現われて心穏やかで居られる筈がない。だと、言うのに。
ただただ、頭を下げ続けるだけの時間が続く。
「……頭では、わかっているんだ」
ぼそりと、直次郎が言った。未咲はおそるおそる頭を上げて、直次郎を見た。直次郎は未咲から目を逸らし、耐えるように固く目を瞑っている。
未咲が鬼への憎しみに心を燃やし、その黒い炎をどうにか内に押し込めたように、直次郎もまた、未咲のそれと似た激情を人に向けまいと耐えているのだろうか。
こうして、憎しみや悲しみといった負の感情は、巡り巡っていくのかもしれない。人から人へ、感情は伝い、新たな悲劇が生まれ、また憎しみが生まれる。
どこかで、耐えなければいけない。未咲はやりきれない気持ちを抱え、左腕を右手でぎゅっと強く握った。どうして、被害に遭った人がこの激しい感情に耐えなければいけないのだろう。この世は、いつだって理不尽だ。
「わかっている。お前さんが、悪くないことくらい」
未咲は目を見開いた。
「鬼なのだろう。宗一郎は怪異に魅入られ、お前さんを殺そうとした」
嘘、と、未咲は声もなく唇を動かした。
「それだけだ。頭では、理解している。……だが、心は違う」
直次郎は力なく首を振った。
「もう俺の前から消えてくれ。お前さんに、手をかけてしまう前に」
未咲は何と言って良いかわからずにただ直次郎を見つめた。直次郎は未咲の隣で大人しくしている真神に一瞬視線をやったと思うと、未咲に目をやった。けれどその目は、未咲を見ているようで見ていなかった。どこか遠くを見ているように、未咲には感じられた。
暫く沈黙が続き、未咲も、直次郎も、その場を動こうとしなかった。
「わ、たし」
未咲は喉を震わせ、その後上手く続けることが出来ずにぐっと歯を噛みしめた。直次郎が鬼のことを知っているなら、何故知っているのか、何を知っているのか問いただしたい。けれど、未咲には直次郎に対してそんなことをする権利も資格もないと、そう思った。未咲が発するすべてが、直次郎を痛めつける凶器になってしまう。
肌寒い風が二人の間を吹き抜ける。いつもと同じ村を優しく包み込んでくれる風の筈なのに、今夜の風は何だか白々しい。
「お前さんが、どこか人と違うことはわかっていた」
「……え?」
「だから宗一郎は……」
いや、と直次郎は悲壮な表情で首を振った。
「今となってはもう、何を言っても遅い」
ズキン、と未咲の胸が痛んだ。そうだ、今さら、何を言っても遅い。亡くなった人たちに対して、遅いも早いも、ない。
過去の記憶を脳内で
あの時ああすればよかったと後悔して、記憶の中の彼らに謝るだけ。
けれどその願いも、後悔も、いつかは時間とともに風化してしまうのかもしれない。彼らを過去に取り残したまま、生きているわたしたちはどう足掻いても未来へと進んでしまう。
「わたしは、月夜見の、子孫です」
気付いた時には、未咲はそう口にしていた。直次郎は目を見張り未咲を見つめていたが、やがて表情を
「そうか」
重々しい響きであった。その声には直次郎の苦悩が凝縮されているようにも感じた。
「俺にゃ、この村の因縁のことはわからんが」
「俺の家に、鬼の遺物がある」
一瞬、時が止まった。未咲にはそう感じられた。風が止み、その言葉が間違いなく未咲に聞こえるように、世界がそう図ったようだった。
「どうして」
喉が渇いて仕方がない。未咲が小さく呟いた問いかけに、直次郎は苦虫を噛み潰したような表情をした。
「代々受け継いできたものだ。意味は……考えたくもない」
直次郎はそう吐き捨て、未咲に背を向けた。
「勝手に持って行け。俺には必要ない」
それを受け継ぐ者も、もう居ないからな。
未咲は言外にそう言われた気がした。
直次郎の背中が小さくなっていく。未咲はバッと頭を下げた。言葉に出来ない感情が胸に溢れ息が荒くなる。
代々受け継いできた、鬼の遺物。それが何を表すのか、何となくわかる気がした。
直次郎と宗一郎は、鬼の家系。もしくは、鬼と縁のある家系である、ということ。
頭がぐるぐると混乱した。急な展開に追いつけない。気を抜けば時間が未咲を過去に置いていってしまう気がした。
静かに直次郎の挙動を見つめていた真神がゆっくりとした動きで直次郎の家を振り返った。未咲もその気配を察して、真神の様子を見た後、釣られるように身を翻す。
「――え……」
思わず息を止めた。
以前の朔の日に、昼から夜へ迷い込んだ時のようだった。
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