19-2 孤独な少年

 未咲の頭は酷く混乱した。

 何故、雅久が祖父の話をするのか。

 何故、雅久は祖母の名前を知っていて、そして「澄子」と呼ぶのか。


「俺が鬼の傍にいれば、村にはわざわいが降りかからずにすむ。だというのに、澄子はそれを赦せないようだった。何とか俺を鬼から解放しようとしてくれたんだ。だけど当然、鬼はそれを赦さない。ただでさえ、月夜見の血を引いている澄子に怨みを抱いていたのに、それに拍車がかかった」


 未咲の心臓がドクドクと大きく脈打つ。口の中が渇いて、喉が張り付くようで気持ちが悪い。


「だから俺は澄子を突き放して、澄子にお前の祖父とともに元の世界へ帰ってもらった。……まあ、澄子が生まれた世界はここだから、その言い方もおかしいが」

「雅久」


 未咲は声を震わせた。雅久の言い方では、まるで、


「雅久……どうして、そんな……まるで、全部見てきた、みたいな」


 それ以上、何も言えなかった。雅久という少年の壮絶な孤独に触れてしまいそうで怖かった。一人で抱えて、ずっと隠し持っていた感情という感情のすべてを詰め込んだパンドラの箱を開けてしまいそうで。雅久の一番柔らかな部分に触れて、わたしの小さな爪がひっかき傷を作って。そうしたら、雅久はもう、崩れて、存在ごと消えてしまうのではないかと、不安になった。

 雅久は未咲に微笑んだ。とても悲しくて、つらそうな笑みだった。


「そうだよ、未咲。俺は、すべてこの目で見てきたんだ」

「――」

「澄子が赤ん坊の頃に未咲の世界へ行った時から」

「――」

「この姿のまま、ずっと」


 重い静寂がその場を支配し、未咲は何を言うべきかわからず、薄く開いた口からただ浅く呼吸を繰り返した。


「あ、の」


 未咲は言葉を絞り出し、ごくりと空唾を飲み込んでから続けた。


「その、それは……」


 けれど、それ以上は何も言えなかった。訊きたいことは沢山ある筈なのに、その先を知るのが怖かった。未咲は俯いてぎゅっと強く目を瞑った。


「未咲には、何も知らずに帰ってほしかった」

「……うん」

「俺は、未咲が元に帰る方法も知っているんだ」


 未咲はカッと目を見開いて勢いよく雅久を見た。雅久は自嘲的に笑みを浮かべている。


「ま、待って、雅久。それって、矛盾してるよ。どうして方法を知っているなら、わたしに教えてくれなかったの?」

「……そもそも、その方法で世界を渡ることが出来る日は限られている、ということもあるが」


 だが、と、雅久はぐっと眉間に皺を寄せた。


「魔が差したんだ」

「それは、どういうこと……?」

「鬼が怨みを晴らせば、すべてが終わると思ったんだ」


 未咲は心臓を突き刺された心地だった。じわり、と視界が滲み、気がつけば頬に涙が伝っていた。


「未咲が鬼に殺されても、良いと思ったんだ。……でも、出来なかった……どうして、なんだろうな……ずっと迷って、迷ったまま、未咲を」

「雅久は、わたしを助けてくれた」

「そうだな」


 雅久は小さく頷いた。それから未咲に顔を向ける。


「馬鹿な男で、すまない」


 雅久の目からも、涙が溢れていた。未咲は堪えるように唇を結び、ぐいと手の甲で目元を拭った後、両手で雅久の頬を包んだ。涙に光が反射してきらりと煌めく雅久の双眼は、やはりとても美しいと思った。

 雅久の苦しみは、未咲には到底わかるものではない。未咲の祖母が赤ん坊の頃から雅久は今の姿のまま生きてきたと言うが、以前正芳と話した時に、この世界と未咲が元いた世界には時差があることがわかった。ならば祖母が生きた年数以上に、雅久は生きているのかもしれない。それは雅久が話してくれない限りわかることではないけれど、その間の孤独を……周囲の人々が老いていき、けれど自分の時間は止まったままの恐怖と寂しさを、未咲は想像することが出来ない。雅久の言葉には確かに傷ついた。それでも、雅久がすべての終わりを望んだことを責める気にはなれなかった。

 未咲は雅久を見つめて微笑んだ。


「じゃあ、そんな雅久を好きになっちゃったわたしも、馬鹿な女だね」


 雅久は目を見開いた。雅久の目から零れ落ちた涙が、未咲の手を濡らす。雅久は眉尻を下げて、かすかに笑った。


「お前は、本当に……」

「馬鹿だな、って? 雅久ってわたしのこと、何度も馬鹿って言ってる気がするなあ」

「ああ、そうだな」


 雅久は未咲の目をじっと見つめた。未咲は思わず目を逸らしそうになったのを、ぐっと堪えた。恥ずかしさに頬が赤くなりそうだった。


「……まだ、伝えていないことが沢山ある」

「うん」

「抱き締めても、いいか」

「へ?」


 思いがけない言葉に、未咲は間の抜けた声を上げた。思わず雅久の頬から両手を離し、胸の前でうろうろと彷徨さまよわせた。雅久は未咲の返事を待たずに未咲を胸に抱き寄せる。ぎゅう、と強く抱き締められ、未咲は全身が熱くなった気がした。どきどきと高鳴る胸がうるさい。未咲はぎこちなく雅久の背に腕を回した。雅久の抱き締める力が強くなり、未咲は眩暈めまいがするようだった。

 と、未咲は雅久の身体が震えていることに気付いた。


「雅久……?」

「すまない」


 怖いんだ、と、消え入りそうな声が頭上から降ってきて、未咲は切なさに胸が引き裂かれそうになった。雅久が親にすがる子どものように思えて、未咲は雅久と決して離れないように強く抱き締め返した。


「……置いて、いかないでくれ」

「うん。置いていかないよ」

「一緒に、いてくれ」

「一緒にいるよ」

「……嫌いに、ならないで……」


 未咲の肩口に顔を押しつけて、雅久は言った。肩が濡れる感覚がして、未咲の目からも再び涙が溢れた。


「大好きだよ、雅久」


 未咲の耳に、小さな嗚咽が届いた。未咲は唇を閉ざして雅久を抱き締め続けた。

 感じる身体の震えがどちらのものかもわからないまま、二人は言葉もなく、痛みとぬくもりを分け合っていた。

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