18-5 鬼とは

「忙しい娘子じゃな」


 老爺がぱちん、と指を鳴らすと、右側のふすまが開いて十二単の女性が現われ、未咲の傍に膝をつくと水で濡らした布巾を差し出した。固く絞られた布巾はほどよい湿り気があり、口元に当てると冷たい空気が身体に浸透していくようで少し落ち着く。未咲はしばらく深呼吸を繰り返してから布巾を口元から離し、その布巾で胃液がついた手を拭った。その間に、女性が畳の方を綺麗に掃除してくれたようだった。


「ごめんなさい」


 未咲が眉尻を下げて謝ると、女性は一礼して部屋から去って行った。


「口もすすいでくるか?」

「え、あ、いえ、お茶があるから……大丈夫です」


 老爺の提案に頭を振り、未咲は湯のみを手にとって緑茶を啜った。少し変な味がしたが、かすかに眉をしかめ、すぐに表情を戻した。


「……わたしのせいで、二人が亡くなったんだと思ったら……すみません」

「おぬしのせいか」

「わたしが、鬼に狙われてるから。だから」

「村が襲われた、ということか」

「……はい」


 老爺はふう、と息を吐き出し、やれやれと首を振った。


「確かにそうかもしれんがな。それがおぬしのせいとは思わんことだ」

「でも」

「人は何故鬼になると思う?」

「え?」


 老爺の思いがけない問いかけに、未咲は目を丸くして聞き返した。何を問われたか理解ができず、数秒考え込んだ。そして言葉の意味を理解した瞬間、未咲の心臓はどくどくと騒ぎ出した。今、とんでもないことを聞かされた気がする。


「あの、鬼は、元々人間なんですか?」


 今度は老爺が目を丸くする番だった。呆れたようにはあ、と息を吐いた老爺を見て、未咲は自分が何も知らない幼子のように思えて恥ずかしくなった。


「当たり前であろう。人間が鬼にならないというのなら、何が鬼になるんじゃ」

「鬼は、鬼っていう生き物なのかと」


 未咲は茫然とした。鬼が元々は人間であった等という考えは微塵もなかった。御伽噺で見るような鬼は最初から鬼であったし、何か別の生き物から鬼に転じた、なんて描写は見たことがない。


「鬼が元々鬼であるならば、こんな面倒なことは起きまい」


 老爺は手に持っていた酒瓶をぐいと煽った。飲み口から口を離し、ぷはーっと息を吐く。手の甲で口元を拭い、少々赤らんだ顔で未咲を見据えた。


「何故人は鬼となる?」


 先程と同じことを問われ、未咲は動揺を隠せないまま考えを巡らせる。

 鬼が元は人間だと言うのなら、月夜見に対し、身体の芯から凍っていくような怨嗟を宿したあの鬼も、また人間だったのだろうか。だとすれば、あの鬼は、人間であった時に月夜見と何かがあり、それがきっかけで鬼になったのか。それとも、鬼になったのが先か。いいや、月夜見と何かあって鬼となったのだ。そして、鬼となった理由は、おそらく、


「……怨み」


と、未咲はぽつりと呟いた。老爺はにぃ、と口元に弧を描いた。はっきりと正解とは言わなかったが、未咲はその様子を見て、怨みを募らせた人間が鬼に転じるのだと悟った。


「では、何故その鬼は月夜見を怨んだのじゃろうなあ」


 謎掛けでもするように、老爺は言った。暗に、理由を知れと言われているのだと、未咲は感じた。寒気がして腕を摩る。人間が怨みで鬼になるなんて、その怨念の強さは計り知れない。月夜見と鬼の関係は気になっていたけれど、漠然と「神様と鬼は敵対する関係だ」と言われてしまえば納得してしまっていただろう。未咲の疑問なんて、その程度のものだったのだ。


「憎しみを憎しみで返してもよい。それはおぬしが決めることであるからな。儂がどうこう言う問題でもない。しかし、それでは何も終わらぬぞ」

「え……」

「鬼はさらに憎しみを募らせるだけかもしれん」

「そんな」


 未咲は沈痛な面持ちで俯いた。なら、どうしろと言うのだろうか。鬼をただ倒すだけでは鬼が憎しみを募らせるだけで、鬼が消えることはない。鬼の憎しみを晴らす? けれど、それでは、月夜見の子孫であるという未咲の命を差し出すことにはならないか? まさか老爺は、そうしろ、と言っているのだろうか。未咲は腕をぎゅっと強く握った。


「未咲」


 未咲の背後の襖が開いた。未咲が振り向くと、そこには雅久が立っていた。雅久は部屋の中に入り、未咲の右腕を取る。


「が、雅久?」


 未咲は戸惑って雅久を見上げた。雅久は未咲に向けて微かに笑うと、老爺を見た。


大山祇神おおやまつみのかみ様、未咲をお借りしてもよろしいでしょうか」

「許可しよう」

「ありがとうございます。……未咲」


 雅久は未咲を視線で促した。未咲は困惑して雅久と老爺の顔を見回す。状況がうまく飲み込めない。それに、雅久が老爺を呼んだ時の「おおやまつみのかみ」も気になる。敬称をつけていたことから明らかに老爺の名前であろうが、響きからすると神様の名前に思える。


「おじいさんって、やっぱり」

「ほほ。今は雅久の話を聞いてやれ。終わったらこの屋敷に戻ると良い」

「え? でも」

「まさか、村に戻るつもりか。……やめておけ、村人たちの怒りをいたずらに増幅させるだけじゃろう。せめて時間を置くことじゃ」

「――」


 未咲は最後に見た村人たちの表情を思い出して口をつぐんだ。あの顔をもう一度向けられると思うとぞっとする。


「未咲」


 顔色が悪くなった未咲を気遣うように、雅久が柔らかく名前を呼んだ。未咲は懸命に下手くそな笑みを返した。


「俺の話を聞いてくれないか」


 雅久は微笑を浮かべて言った。未咲には、その笑みが酷く傷ついているような、泣いているような表情に見えて衝動的に雅久を抱き締めてあげたくなった。未咲は雅久の頬にそっと触れて目を細めた。


「うん。もちろんだよ、雅久」


 雅久は頬に触れた未咲の手に自身の手を重ね、目を閉じた。


「ありがとう、未咲」

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