18-4 憎しみ

「未咲、早く来んか」


 ふすまの向こうから老爺の声が届き、未咲は我に返った。


「す、すみません。今着替えが終わりました」

「ならばさっさと来い。いつまで待たせるつもりじゃ。儂は気が短いぞ」

「今行きます」


 慌てて襖を開くと、先日老爺と話した時の部屋があった。床の間と、紅葉が描かれた襖、向かい合わせに置かれているすみれ色の座布団。老爺は既に座布団の上で胡座あぐらをかいて酒を呑んでいる。

 以前と同じ構図だ。未咲は目を見張った。前回はボロ小屋の玄関から入ってすぐの部屋がここであった。なのに、未咲が寝かされていた部屋の襖を開けてまったく同じ光景が広がるなんて、ありえない。どんなからくり屋敷なのだ、と未咲は少々げんなりとした。考えたところで、答えは出ないだろう。


「座って茶でも飲め。少しは気も落ち着けよう」


 未咲は老爺の向かいに座り、既に置かれていた湯のみを手に取り、ずず、と緑茶をすすった。手のひらからじんわりと伝わる熱と緑茶のほどよい渋みやあたたかさに、知らぬ間に強ばっていた表情を緩めほっと息を吐く。重く沈んでいた心も、ほんの少しだけ光が当たる場所へ浮上した気がした。


「あの、雅久は……? 真神も、何処に」

「雅久は他の部屋で休ませておる。真神は屋敷の前におるぞ」

「……さっき、雅久がわたしを連れてきたって。雅久と、おじいさんはどんな関係なんですか?」


 未咲が老爺に会いに来た時は真神が連れてきてくれた。だから、今回だって真神が老爺のところまで雅久を案内したと考えてもおかしくはない。けれど、老爺は雅久のことを最初から知っていた様子だった。未咲はわずかに眉を寄せて、湯のみをぎゅっと握った。


「……ふむ」


 老爺は酒瓶を口に運ぶ手を止め、何かを考えるように目を伏せた。


「詳しくは雅久から直接聞くが良い。いい加減、奴も話すじゃろう。こんなことがあったからにはな」

「こんなこと、って」

「村に被害が出、死人が出た」

「――」


 未咲の手から湯のみが滑り落ちた。膝に当たって転げた湯のみから、ばしゃ、と緑茶が畳の上に溢れる。はっ、と呼吸の間隔が短くなっていく。動悸が激しくなって苦しい。未咲は胸を押さえて背中を丸めた。ぽたぽたと落ちた涙が畳に染みていく。


「ゆっくり呼吸しろ」


 何度も意識的に呼吸を繰り返し、苦しかった息も徐々に落ち着いていく。焦燥に滲んだ汗が額を流れたことにようやく気づいた。片手は胸を押さえたまま、もう一方の手で汗を拭う。手は酷く震えていた。力が上手く入らない。


「すみ、ま……せん」

「良い。早く自分を落ち着かせなさい」

「は、い」


 途切れ途切れに返し、しばらく呼吸を繰り返した。その間にあの人形めいた女性が部屋に入り、こぼした緑茶を拭き取り湯のみを下げる。代わりに新しい湯のみが置かれたのを、未咲はただ眺めた。

 最後に大きく息を吸い込み、鼻からゆっくり吐き出す。身体を起こして老爺を見た。


「すみません、もう、大丈夫です」

「うむ」

「それで、あの、ええと」


 何を聞きたいのか頭の中をうまく整理出来ず、未咲は言葉を濁した。気を抜けばまた底知れぬ闇が這い上がってくるようで、意識が心の奥へと向きそうになる。未咲は頭を振り、隙あらば未咲の恐怖を刺激しようと狙う蛆虫うじむしを追い払った。


「雅久は度々、儂の屋敷で面倒を見とるからな」

「え?」

「当然、この屋敷のことも、儂のことも知っとる」

「雅久が住んでるって言ってた村の外れの家って、ここのことなんですか?」

「それはここではないじゃろうな」


 老爺は酒を口に含んだ。酒を舌の上で転がして味を楽しんだ後、ごくりと飲み込む。


「ま、奴には奴なりの事情がある。最初は好きにさせてやろうと思うたが、ちと、憐れでな」

「どういう、ことですか」

「儂から言うことではない」


 老爺は素っ気なく返した。それはそうだ、と未咲は俯き、ぎゅっと目を瞑った。雅久の事情は雅久から訊かなきゃ。わたしはそう決めたじゃない。


「村のことは災難じゃったな」


 その言葉に、未咲はぴくりと反応した。


「災難……?」

「うむ」

「あんな……あんなことが『災難だった』なんて言葉で終わる筈ない!」


 ビリビリ……と部屋全体が震えたようだった。


「あれは鬼のせいなんでしょう? 鬼が村を燃やして、正芳さんと宗一郎さんを殺したんだッ!」


 腹の底から煮えたぎる怒りや憎しみが抑えられない。未咲は感情任せに叫び肩で息をした。


「であれば、どうするというのじゃ」


 そんな状況でも、老爺は冷静に返した。荘厳な山の静けさを瞳に湛えて未咲を見つめている。

 未咲は老爺をギンッと睨んだ。


「鬼を殺す」


 胸の内にどろりとどす黒いものが渦巻く。頭に血が上り、全身が熱い。村で起こったことを思うと、どう足掻あがいても鬼の存在をゆるせる筈がない。村人たちや、殺された正芳や怪異に身体を乗っ取られ刀を振るう羽目になった宗一郎と同じ苦しみを味合わせなければ腹の虫が治まらない。


「鬼を殺す、か。何故殺す?」

「何故って……」


 未咲は目をいて老爺を見た。老爺が何故そう訊くのか理解出来ない。ギリ、と歯を食いしばり目線を下げて畳を睨むと目の奥で黒い炎がぜた気がした。


「何のために鬼を殺すのか、答えてみよ」

「だって、鬼が、正芳さんと宗一郎さんを」

「二人のためか?」

「二人の、ため……?」


 未咲は急に迷子になった気になって、茫然と老爺の言葉を繰り返した。二人のために鬼を殺す。そう言葉にすると、何故かそれが正しくないものに思えた。二人が殺されて、憎くて、鬼を殺さなければならないと思った筈なのに。わたしは間違っているのか。……間違っているのかもしれない。――わたしのせいで、二人は死んだのだから。


「う、え……」


 未咲は胃からせり上がってくるものを抑えきれず、畳の上に吐き出してしまった。口元を押さえた手から胃液がしたたった。

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