18-3 目覚めた場所

 目を覚ますと格子天井が目に入り、正芳と文子が貸してくれた部屋にいるのかと思った。


「失礼いたします」


 聞き覚えのない声に心臓が跳ねた。す、とふすまが引かれる音がして、未咲は不安を抱きながらもそちらへ顔を向ける。

 いつか見た美しい十二単を身にまとった人形めいた女性であった。正座をして、綺麗に指を揃えた両手を畳についている。軽く俯いた顔には陰があり、伏せた長い睫毛がやけにつやめいて見えた。


「あ、の……おはようございます……?」

「ご主人様がお待ちです」


 戸惑いながらの挨拶は襖を通り抜けて飛んでいってしまった。表情をぴくりとも動かさない女性の様子に未咲は恥ずかしくなった。挨拶は礼儀だと思っているし、返事がなくてこちらが恥ずかしい思いをするなんて、何だか釈然しゃくぜんとしない。

 いや、それよりも、だ。ここは何処なのだろうか。未咲は内心首を傾げた。雅久や真神と一緒に、あのコバルトブルーの池の前に居たはずなのに。

 もしかして、すべて夢だったのだろうか。村で火事が起こったことも、宗一郎に襲われたことも。


 ――正芳と宗一郎が、死んだことも。


 右腕で目を覆った。思い出したくない。そう思っているのに、瞼の裏には彼らの姿が焼き付いて離れない。宗一郎のおぞましい表情や、正芳の血を流して真っ青になった顔が、思い浮かぶたびに彼らの笑顔が遠ざかっていくようで涙が溢れてくる。夢、なんかじゃない。全部、全部覚えているのだ。あの地獄のような光景を。


「起きんか、寝坊助が」


 上から呆れを含んだ声が降ってきて、未咲は一瞬固まり、そろそろと腕をどかした。御神木や境界について教えてくれた老爺が未咲を見下ろしている。


「そのまま奈落へ沈んでいく気であれば、止めはせんがな」


 ぽろりぽろりと、涙が流れていく。沈んで沈んで、暗闇の中で生きているかも死んでいるかもわからない状態になれたとしたら、もしかすると救いなのかもしれないと思ってしまった。考えることをやめて、海月くらげのように漂うだけであれたら、こんなに苦しくてつらくて痛い思いはしなくていいのだろうか。


「おぬしはここで終わるか?」


 何故村で火事が起こったのか。何故正芳と宗一郎は死なねばならなかったのか。わたしを狙うのならば、これまでのようにわたしだけを襲えば良かったのに。未咲は奥歯をギリ、と噛み締めた。


「……まずは起き上がるところからじゃな。茶でも煎れさせよう」


 ありがとうございます、と言おうとして開いた唇からは吐息だけが漏れた。未咲は身体を起こし、右手の甲で涙を拭った。


「あ、の、わたし、どうしてここに」

「雅久が連れてきたのでな」

「……え?」


 思いがけない言葉に、未咲は遅れて反応した。問うように視線で訴える未咲を無視して、老爺はひらひらと片手を振り部屋を出て襖を閉めてしまった。いつの間にか、あの女性も居なくなっている。

 ぼーっとして老爺が消えていった襖を見つめ、ふと目線を下げると、布団の横にクリーム色の布地に赤や白の花紋が描かれた着物が畳んで置かれていることに気づいた。

 この着物に着替えてから来いということだろうか。未咲はその洒落た着物を手に取って暫し眺め、はあ、と重い溜息を吐いた。


 こんな上等な着物を、わたしが着ても良いのだろうか。こういう着物は、きっと何のしがらみもなく花がほころぶように笑う可愛らしい少女が身に纏うべきだ。未咲は着物をぎゅっと握り締めた。今のわたしはどろどろとした黒いものが蛇のように腹の底を這いずり回っていて、華やかな装いをしたところでその醜さを隠せそうにない。


「あれ……浴衣になってる」


 あの女性が着替えさせてくれたのだろうか。おそらく土やすすで汚れていただろう野良着ともんぺは見当たらず、未咲が着ていたのは青い絹地の浴衣であった。そういえば、何だか身体もすっきりとしている。晴れないのは、唯一心だけであった。

 寝間着で老爺の元へ行くわけにもいかず、未咲はいそいそと用意された着物に着替えた。この世界に来た当初は着付け方なんてわからなかったというのに、今ではよどみない動きで着付けることが出来る。文子が辛抱強く教えてくれたおかげだ。未咲は文子の慈愛に満ちた表情を思い浮かべようとして……また失敗してしまった。


 今頃文子は、正芳がいない家の孤独を一人で耐え忍んでいるのだろうか。未咲は眉を寄せ唇を噛んだ。わたしだったらきっと、寂しくて、つらくて、悔しくて、怒りが湧いて、やるせない思いを抱えきれなくて、押し潰されてしまう。文子の悲しみや悔しさに寄り添えたらと思った。けれど、すぐ思い直す。


 宗一郎の父親と同じように、文子もまた、わたしのせいだとわたしを糾弾きゅうだんするだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る