第18話 怨み

18-1 ふたりぼっち

 駆ける真神が足を止めたのは、いつか未咲が夢で訪れたコバルトブルーの池の前であった。一度目は未咲自身が訪れ、真神と出会った。そして二度目は、月夜見の記憶の中だった。月夜見となって偶然美丈夫と出会い、激しく胸を焦がした場所。


 雅久は軽やかな動きで真神から降り、未咲に向かって右手を差し出した。未咲はその手を取ろうと左手を伸ばしかけ、躊躇ちゅうちょした。中途半端に伸ばした手が宙を彷徨っていると、雅久が先に手を取ってぐいと引っ張った。未咲の身体がぐらりと傾く。


「きゃあ!」


 真神から落ちた未咲を、雅久は難なく受け止めた。突然の乱暴な行為に文句を言ってやろうと未咲が雅久を睨もうとすると、後頭部に手を回され顔を雅久の胸に押しつけられる。ぎゅう、とすがるように強く抱き締められ、未咲は目の奥が熱くなった。


「……置いて、いかないでくれ……」


 消え入りそうな声が、未咲の胸を揺さぶった。


 風が吹けば、何処か遠くへ飛ばされてしまいそうだった。

 葉が擦れる音がすれば、誰の耳にも届かないまま溶けてしまいそうだった。


 もし、この場に未咲が居なければ、雅久の唇から零れたその切ない祈りは、外に吐き出されることもないまま雅久の胸の奥の奥にしまわれて、もう二度と出てこられないように雅久自身の手で斬り殺されてしまったかもしれない。斬られた祈りは血の涙を流し続け、誰も、雅久自身も、気付かないまま、沈むだけ。


 雅久の身体は震えていた。悲しんでいると、傷ついていると、苦しんでいるのだと、必死に訴えていた。未咲はきつく抱き締め返した。


 雅久。


 名前を呼びたいのに、声が出ない。薄く開いた口からは小さく嗚咽おえつが漏れ、ただただ泣くことしか出来なかった。


 未咲を殺そうとした宗一郎が死んだ。未咲を孫のように可愛がってくれた正芳も、死んでしまった。脳裏に浮かぶ彼らの顔が、醜悪でおぞましい表情や、生気が失われ蒼白な顔をしていて、それが酷く恐ろしく、そして心の底から悲しい。彼らの朗らかな笑顔や、未咲を優しく包み込んでくれた表情がすべて塗り変わり、思い出すことが出来ない。事件直後だからだろうか。それとも、もう一生、大好きだった彼らの笑顔を思い出せないのだろうか。恐ろしくて、たまらなかった。


 言葉もないまま、互いにすがり付いた。痛みも感じるほど、強く抱き締め合っていた。そうしていなければ、立っていられそうになかった。互いの存在を確かめ合って、やっとこの世に魂を繋ぎ止められる気がした。

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