17-2 取り憑かれた男

 大丈夫だ。未咲は強い子だ。


 未咲は目を閉じて正芳の言葉を反芻はんすうした。こんなにも優しさに溢れている村を、皆を、正芳を、失って良い筈がない。大丈夫、わたしは出来る。心を落ち着けて。清廉とした水のように、夜を優しく照らす月のように。

 そっと、あたたかなものが未咲の右手に触れた気がして目を開いた。すると、正芳を支える未咲の右手に、淡く輝く半透明の誰かの右手が重なっていた。


 ――未咲、自分を信じて。きっと出来るわ。


 ああ、優しい、おばあちゃんの声だ。

 と、左手にもまた、誰かの左手が重なった。おばあちゃんの手よりも大きくて骨張っているその手に、未咲は見覚えがあった。

 これは、おじいちゃんの手だ。おばあちゃんと違って何も言わないなんて、寡黙かもくなおじいちゃんらしい。未咲は泣き笑いを浮かべた。

 着物の内側に入れていた石のペンダントが蒼白い光を放ち、宙へと浮かび上がる。未咲はその光に、静かに、強く祈った。


 石から水が湧き出て、ビー玉ほどの大きさをした水玉が一つ生まれたと思うと、次から次へと水玉が出来、空へと舞い上がっていく。未咲は無数の水玉を追って空を見上げた。ぱちん、と何処かから弾ける音がしたと思うと、村中に光を帯びた雨が降り注いだ。

 それはあまりに優しい雨であった。その不思議な雨はまたたく間に村を燃やしていた炎を鎮火していく。未咲にも雨が当たっている筈なのに、未咲を濡らさなかった。

 正芳の様子を見ると、見る者の心までもを切り裂く痛々しい刀傷が消え去っていた。未咲は心の底から安堵し、またもや泣きそうになった。


「よか……」


 よかった、と言いかけて、未咲は異変に気付いた。正芳の顔色が戻らない。呼吸をする時に動く筈の胸が動いている様子がない。おそるおそる、小刻みに震える手を正芳の鼻下に近づけた。

 息をしていない。


「正芳さん……?」


 頭のてっぺんから冷水を浴びたようだった。ううん、わたしの勘違いかもしれない。と、脈を確かめようと正芳の首筋に手を動かそうとした、その時。

 近づいてくる人の気配を感じて、未咲は蒼白い顔をぎこちなく上げた。

 ゆらり、ゆらり。

 だらりと両腕を垂らして、大きくよろけながら、瞳にくらい光を灯した宗一郎と目が合った。口の端からよだれが垂れ、頬には土や血がこびりついている。


 宗一郎がにんまりと悪魔のような笑みを浮かべる。

 正芳の血がついた刀を天高く振り上げた。

 そのすべてが、未咲には酷くゆっくりに見えた。


「ぐああああっ!!」


 振り下ろされた刀が未咲に届く前に、白い疾風が宗一郎を襲った。宗一郎の空を裂く絶叫が村に響く。未咲の元へ駆けつけた真神が宗一郎に飛びかかったのだ。牙を剥き出しにした真神が宗一郎を押し倒し、その鋭い牙を突き立てようとする。


「や、やめて真神ッ!」


 それはほぼ悲鳴だった。言葉として機能するか定かではない声が真神の耳に届き、真神は宗一郎の首に噛み付こうと開いた口を閉ざし低くうなった。

 ごふっ。

 宗一郎の口から赤い液体が吐き出された。未咲は既に冷えきっている指先がさらに冷たくなった気がした。


「真神、そこからどけて!」


 未咲は正芳をぎゅっと抱き締め、耐えるように顔を歪めた後、正芳をそっと地面に横たわらせ宗一郎の元へ駆け寄った。

 宗一郎は身体をひねり地面に向かって苦しそうに咳き込んだ。吐いた血が土に染み込んでいく。その時、未咲は宗一郎の口から黒いもやがもわ、と出てくるのを見た。

 黒い靄は未咲の顔の前まで昇り視界を奪った。目の前で渦巻く靄を動くことも出来ずに見つめていると、三つの赤い光が逆三角形の角を取るように滲み三日月を描いた。糸のように細い目と、先程宗一郎が浮かべた笑みと同じくにんまりと弧を描いた口。いつかホラー映画で見た、不気味に笑う仮面だ。未咲は背骨を電撃が突き抜けていく感覚がした。


 こいつを何とかしないと!


 そう思った瞬間、靄の顔に宗一郎の顔が重なった。未咲が息を呑む間に宗一郎が未咲を押し倒す。勢い良く頭と背中を打ち付け、未咲は一瞬意識が飛びかけた。ガッと宗一郎の両手が未咲の首を絞める。


「う、ぐ……!」


 気道が塞がれ、息が出来ず苦しい。どうにか逃れようと身体をよじろうにも上半身に宗一郎がのしかかり、わずかに身じろぎする程度で終わってしまう。宗一郎の両手に爪を立てても、彼は手を緩めることなく力の限り締め付けた。喉を絞められる感覚が酷く気持ち悪い。嘔吐えずきたいのに、嘔吐くことも許さない。視界が次第に薄暗くなり、いよいよ死を意識した。


「ぎゃああああ!!」


 宗一郎が獣のような叫び声を上げ、未咲の首から手を離した。未咲はゲホゲホと大きく咳き込んだ。ぐわんぐわんと視界が揺れる。あまりの苦しさに涙が溢れた。

 未咲が滲む視界に捉えたのは、真神が宗一郎の右腕に牙を突き立てた姿であった。真神の美しい白毛に飛び散る赤、宗一郎の腕から溢れる血液が酷くおぞましいものに見えた。

 真神が宗一郎を持ち上げ、地面へと叩き付ける。解放された未咲は首に左手を当てながら身体を起こした。


「やめろ! やめてくれ! 宗一郎が死んじまうッ!」


 叫んだのは、誰だったか。

 よろめきながら起き上がった宗一郎の手には、運悪く傍に転がっていた刀が握られていた。ぎょろり、と声が聞こえた方向へ目を向ける。

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