16-3 山の翁

「この前、山のふもとでお会いしましたよね」

「はて」


 老爺ろうじいはわざとらしく首を傾げた。手燭てしょくに立てた蝋燭ろうそくの火が煌々こうこうと揺れる。未咲は焦れたように口を開いた。


「わたしのこと、見てましたよね」

「それが何だと言うのだ」


 悪びれる素振りもなく返す老爺に、未咲はたじろいだ。何だと言われると、答えに困る。朔の日に見かけたことを話せば自ずとその先を話してくれるものだと思っていたため、何を訊くべきか考えていなかったのだ。


「え、えっと、どうしてわたしを見ていたのか、気になって」


 未咲はしどろもどろに話した。老爺はじろりと未咲の様子を眺めたまま黙っている。未咲はさらに焦燥感をつのらせた。


「それに、村では見かけたことがなかったし、追いかけても追いつけないし、途中で消えたと思ったら夜だったし」

「要領を得ないのう」

「ええと」

「どういう心づもりでここまで来た」


 ピリ、と鋭い空気が未咲の肌を刺した。老爺の目に灯された光が強くなったように見えて、未咲の心臓はどくりと大きな音を立てた。

 口の中が渇く。緩く、けれど確かに喉を締められているようだ。未咲は身体にかかるプレッシャーを跳ね除けたくて、必死に言葉を絞り出した。


「知り、たくて」

「何を知る」

「すべて」


 老爺は目を丸くした。


「何とも強欲なことよ。すべてを識るのは神のみ。おぬし、神にでもなるつもりか」

「違います。わたしは、月夜見や、鬼のこと、おばあちゃんやおじいちゃんに何が起こったのかを知りたい。そして、雅久のことも、わたしが何者なのかも、知りたい。だからここに来ました。あなたが、何かを知っているように見えたから」

「ほ、」


 ほ、ほ、と笑っているような、小馬鹿にするような声が、川を跳ねていく水切り石のように軽快に弾む。未咲は緊張で手に汗を握った。


「強欲も強欲!」


 老爺はカッと目を見開いて口の端を思いっきり持ち上げた。やけに白い歯が見える。老爺の目が炯炯けいけいと狂気にも似た光を宿し、未咲はぞわりとした。


おのれを知ると? ほ、ほ、己の何を知る? 己のことなど神も知り得ぬものだ。その空っぽの器に何があるのだ。何が見えるというのだ。がらんどうであることを知って何になる? 知りたいとはよくぞ言ったものよ」

「か、空っぽなんかじゃ」

「空っぽである。ただの土塊つちくれ同様じゃ」

「ち、がう」

「ではおぬしをおぬしたらしめるものは何じゃ。おぬしという存在は何者ぞ」

「だ、だから……」


 未咲は拳を震わせた。腹の底から怒りがふつふつと沸き起こってくる。


「それがわからないから知りたいって思うんでしょうがー!!」


 ほう、と老爺は興味深げに三日月の目で未咲を見た。


「空っぽ空っぽって、これでもわたしは十九年生きてきたの! 少なくともその分の記憶はこの身体に詰まってるんだから! 誰のものでもない、わたしの記憶だわ!」

「ほうほう。……で、それ以外に何が知りたいというのじゃ」

「え?」


 あまりにも軽い声で老爺に訊かれ、未咲はぽかんと気が抜けたように口を開けて目をしばたたいた。


「おぬしはその十九年間分の記憶で形成されたものである。それ以外に何が知りたいのか、儂にはさっぱりわからんのう」

「え、いや、その……月夜見のこと、とか。わたし、月夜見に関係する夢を見たことがあって、その、だから、わたしと月夜見の関係……とか?」

「それはおぬしが何者であるかには関係ないことじゃな。考えるだけ無駄というものよ」

「ええー……」


 未咲は脱力したように間延びした声を出した。


「ま、己のことは己で決めよ。からであるとはそういうことじゃ」

「は、はい」


 わかるような、わからないような。未咲は戸惑いを隠せず困ったように眉尻を下げた。


「……って、何か、話を逸らされたような気がするんですが」

「気づいたか。目ざとい娘子むすめごじゃ。ちと面倒だと思ってな。りて帰れば良いと思ったが」

「酷いっ」


 老爺はからからと笑う。

 と、未咲は背後から着物の袖をぐいと引っ張られ振り返った。何事かと思えば、真神が袖をくわえ未咲が倒れない程度にぐいぐいと何度も引っ張っている。未咲はきょとんと真神を見つめた。どことなく不満そうな気配がにじんでいる。


「もしかして、ねてる?」


 微かにうなり声が聞こえた。何それ可愛い、と、未咲はでれでれと頬を緩ませた。


「もちろん真神のことも知りたいと思ってるよ」

「ガウッ」

「……真神も手懐けているとは、これはわからんなあ」


 老爺がぼそりと呟いた。未咲はそれを上手く聞き取れず老爺を振り返るが、彼は感情の読めない目で未咲と真神を見るばかりだった。

 そういえばこの老爺、真神を見てもまったく驚いた様子も、怖がる様子も見せない。月夜見のことも、未咲のことも知っているようだし、一体何者なのだろうか。


「あの」

「さて、話をするなら中に入れ。茶くらいは出せよう」

「えっ」


 未咲はあからさまに嫌そうな声を上げてしまった。その場を沈黙が支配する。

 やがて、老爺が顔をしかめ、しゃがれた声で言った。


「おぬし、失礼が過ぎるぞ」

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