15-2 未来を信じて

 雅久の望みを伝えられた後、未咲はどうやって正芳の家まで戻ってきたか、よく覚えていない。

 未咲は再び深い溜め息を吐いた。どうやっても未咲は雅久の力にはなれないのだと、崖から突き落とされたようだ。


「未咲、大丈夫かね」

「あ、えっと、すみません」


 正芳の声に、未咲は咄嗟とっさに謝った。正芳は心配そうに眉尻を下げる。同じく朝食の席についていた文子もまた、似たような表情を浮かべていた。


「雅久と何かあったか」

「あの……あ、そうだ。文子さん、わたし、雅久に文子さんのことを伝えられなくて。ごめんなさい」


 未咲はふと思い出して文子に言った。文子は微かに笑みを浮かべて首を振った。


「気にしなくていいのよ。今度あの子に会ったら直接謝るわ」

「……はい」


 未咲の表情の影が濃くなって、正芳と文子は顔を見合わせた。正芳は姿勢を正して未咲と向き合う。


「未咲、この後儂の部屋で少し話そうか」

「え? あ、はい。わかりました」

「うむ」


 正芳は大きく頷いた。心配をかけてしまったな、と未咲は感情を上手く隠せていないことを恥じた。けれど、未咲もまた正芳に尋ねたいことがあり、ちょうど良い機会でもあった。未咲は小さく息を吐いて自身を落ち着けようとした。あまり、効果はなかったけれど。


◆ ◆ ◆ ◆


 朝食を済ませた後、未咲と正芳は正芳の部屋で文子にれてもらったお茶を飲んでいた。お互いにどう話を切り出すか探り合っているようで、未咲は流れる沈黙に居心地の悪さを感じていた。


「あの」


 たまらず、未咲は自ら口火を切った。


「……えっと」


 だと言うのに、その先を続けることが出来ずに、未咲は目を泳がせた。すると、正芳が持っていた湯飲みを床に置き口を開いた。


「すまなかった」

「え?」


 未咲はぽかんと正芳を見た。正芳が苦笑する。


「儂が余計なことを言ってしまったかと思ってな」

「何を……!」


 言葉の意味を汲み取った未咲は、カッとなって口を開こうとした。しかし、正芳があまりにも真摯しんしな目で未咲を見据えるため、未咲は出掛かった言葉をすんでに呑み込んだ。


「だがなあ、やはり、雅久のことは未咲に任せたいのだ」

「それは、どういう」

「儂ももう、長くはない」


 未咲の心臓がどくりと音を立てた。


「雅久はかたくなに村の者との交流を避けていた。だから、儂が居なくなれば、雅久を知る者はどれだけ居るだろうか」

「正芳さん」


 正芳は、何処か遠くに思いを馳せているようだった。未咲は今にも正芳がここから消えてなくなってしまいそうに思えて、引き留めるように名前を呼んだ。正芳はそんな未咲に微笑を返す。


「あいつも頑固なところがあってなあ。だが、時折寂しそうにもする。だからどうにも、放っておけんのだよ」

「……そうですね」

「未咲」


 正芳の凜とした声が響いて、未咲は反射的に居住まいを正した。数秒見つめ合った後、正芳は床に額がつきそうなほど深く、頭を下げた。


「雅久を頼む」


 未咲は呼吸も忘れて、その光景に見入ってしまった。正芳は頭を下げ続けている。

 固まることしばし、未咲は力が抜けたように笑った。何だか、すっとき物が落ちたようだった。


「わたし、雅久に『無事に元の世界に戻って平和に暮らしてほしい』って言われたんです」


 正芳は頭を上げ、眉間に皺を寄せて深く溜め息を吐いた。


「はあ……またあいつは、心にもないことを言いおって」

「雅久の力になりたいんだって言ったけど、そう返ってきたから……すごく悲しくて。何もかも投げ出して消えてしまいたいなあ、なんて思ったんですけど」


 未咲はふふっと明るい笑みを浮かべた。


「わたし、雅久のことを諦めたりなんかしません。それに、鬼のことだって……正直、本当に死ぬかと思ったくらい怖い思いもしたけど、このまま逃げ帰るなんて嫌です」


 正芳は目をぱちくりとさせて未咲を見つめ、それから感心したように頷いた。


「未咲は、強いなあ」

「そんなこと、ないです。怖いし、頭も良いわけじゃないし、これまでも積極的に何かしようともしなかったし……でも、このまま元の世界に帰ることが出来たとしても、きっと後悔するから」


 そう、きっと後悔する筈だ。未咲はきゅっと口を結んだ。

 今、目の前に「元の世界へ帰る」カードと、「謎を解明して鬼と戦う」カードが提示されたとしたら、きっと悩んだ末に後者を取るだろう。平和な世界に帰るという選択肢を前に悩まずにはいられないとは思うけれど、結局、正芳や文子、寧々や宗一郎たち、そして雅久との日々と、元の世界での暮らしを天秤にかければ、どちらに傾くかなんて明白だった。なら、悩むだけ無駄だ。元の世界に帰った後のことを考えると、胸が痛い。


 何もかもわからないまま、身体中に渦巻く黒いもやを抱いて元の世界に帰ったとしたら。村で過ごした日々の思い出や、正芳や文子がくれた愛情、雅久への愛しさに満ちた心をこの世界に置き去りにして、わたしはきっと、何処か足りないままぼんやりと生きていくのだろう。


 結局、わたしは覚悟が出来ていなかった。未咲はうつむいて唇を噛んだ。鬼のことや祖父母のことを知らなければいけないのだと思ったあの日から、結局一歩も動けていなくて、すべてが受け身になっていた。知ってしまえば、深く関われば、戻れなくなると直感したから。怖かったから。弱虫だったから。覚悟を決めた振りをして、逃げていたのだ。それはもう、止めてしまおう。


 どんなことが起きようと、諦めさえしなければ。

 どんなに格好悪くても、最後まで足掻あがき続ければ。

 きっと、幸せな未来を掴める。

 そう信じると決めたのは、他でもないわたしだ。


 未咲はきっ、と表情を引き締めて顔を上げた。

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