第14話 月夜見

14-1 月夜見の記憶

 その地に降り立ったのは、ただの偶然であった。たまたま目に留まって、少し興味が湧いたから。ただそれだけのこと。

 降りた山と向かい側の山の間には村があり、姿は見せないまま、村人たちの暮らしを眺めていた。人間には興味がなかったけれど、かと言ってまったくの無関心というわけでも無く、見物でもしてやろうという気持ちであった。


 観察していてわかったのは、その村は神への信仰もあつく、日々の感謝と敬いの心を忘れず、自然と共存し、つつましく人間が生きている美しい長閑のどかな村ということだった。一瞬で散る儚い命を糧に粛々しゅくしゅくと生き続ける人間たちが、思いの外、愚かで可愛い生き物であると思った。いくら神に感謝を捧げようと、神はその対価に彼らを守ろうなどという慈悲は持ち合わせていないというのに、それでも信じて日々祈るという滑稽こっけいさが可愛い。


 だから、気まぐれに、加護でもしてやろうと思った。


 その村はちょうど、”境界”と隣り合わせのあわれな土地でもあったから、さぞ「人ならざるもの」どもに悩まされていたのであろう。神に祈る姿には切なる思いが込められていた。


 守りたまえ。

 憐れみ賜え。

 神よ、どうか。我らを。


 どこぞの海の向こうの地にいる神々もまた、こんな祈りを受けていたことを思い出す。疫病えきびょうだの洪水だの、人間にはどうにも出来ない驚異に襲われる度に都合良く祈りを受ける神はたまったものではないと思っていたが(そもそもその驚異自体を神々が起こしていたのだから、何とも滑稽こっけいなことだ)。

 悪い気はしない。こうして信仰を受けることは。

 あの水をやるほどとは思えないが、加護をやるくらいであれば、まあ良いだろう。そう思って、人間にとっての異類が安易に”境界”を越えられないようなじゅを、やがて桃色の花を咲かせるであろう木にかけてやった。


 しかし、村は山々に囲まれる地であり、“境界”も何ヶ所かに存在しているようだ。今し方かけた呪のみでは心許ないだろう。精々、異類の数が減る程度であろうか。と言えども、そこまで手厚くしてやるわれもない。今後、気が向いたら別の呪でもかけてやろうか。この先覚えているのかも知らんが、そう決めた。



◆ ◆ ◆ ◆



 加護をかけてやってから幾星霜いくせいそう。今の今まで忘れていたが、ふと思い出し村の様子を見に行くこととした。


 あの桜の木の元へと降り立ち、見事に美しい花を咲かせる様子を見て、思わずほう、と息を吐いた。なかなかに美しいものだと感心する。幹には注連縄しめなわが飾られていた。おそらく村の人間がこの桜の木を見つけ、付けたのであろう。我が加護を授かった木であると理解したのか、それならば人間もなかなかに見る目がある。


 村の様子は以前に訪れた時と大差はなかった。強いて言うならば、信仰が篤くなったということくらいか。“境界”に結界を張ることによって、異類の侵入が減少したのだろう。その要因を探して、あの桜の木でも見つけたか。まあ、おそらくそういったところであろう。崇拝している神が山の神という点には呆れるが、人間がそう認識してもおかしくはない。だが、あやつが人間たちを守るというのなら、そもそも山に“境界”は出来ぬであろうよ。……いや、もしかすると“境界”を作ることで共存でも目指したか。そうであるなら面白いことだ。笑えるな。その思惑を我が力で阻止したということになるのか。そのうち、我が神域に襲撃でもしてくるだろうか。それとも今こうしている内にでも襲いかかってくるだろうか。いずれにしても胸が躍る。あやつは地に根を張ったような男だからなあ。空でも飛んで相手にしてやれば、良い表情を見せてくれるかもしれないな。少し遊んでやろうか。


真神まかみ


 呼べば何処にでも駆けつける白狼が風のように現われる。真神を撫でてやれば、真神は嬉しげに目を細めた。素直で可愛いやつだ。

 真神にまたがり、真神の気の向くままに走らせる。風を切る感覚が心地良い。木々や草花の匂いも気持ちの良いものだ。わざわざ真神を呼び寄せて背に乗る理由はここにある。空を飛ぶのも良い。地を踏みしめて歩くのも良い。だが、真神の背中が一番気分が良い。


 しばらく真神とともに走り、やがて辿り着いた澄んだ花色の池で水浴びすることにした。するりと身にまとう布を地面に落とし、水面へ足先をつけ、ひやりとした水の感触に頬を緩ませる。意味も無くくるくると足先で波紋を作り、鳥の鳴き声が耳に届いたと同時に身体を水に沈めた。

 気の済むまで水中を楽しみ、真神が吠える声を聞いて水面から顔を出した。池から上がり、警戒している様子の真神の頭を撫でてなだめる。


「そう吠えるな、真神」


 さて、真神が警戒している輩はどんなものかと振り返る。

 池を挟んだ向こう側に、男が立っていた。おそらく村の人間であろうその男は、目を見開き口をぽかんと開けてこちらを見ていた。随分と間抜けな面だ。

 しかし。

 木漏れ日に照らされ輝く黒髪、形の整った眉に鼻梁びりょうの線、濁りのない星のごときらめく瞳。その美しい男から、目を離せなくなった。


 この男がほしい。


 これまで感じ得なかった欲望が頭をもたげた。

 何処か恍惚こうこつとしたような表情を浮かべていた男はハッとした後、恥じらうように頬を赤く染め、こちらを見ないよう顔をうつむかせた。ああ、そういえば裸体であったかと思い出す。

 警戒を解かないままの真神を撫でながら、にやりと笑った。


「――この月夜見の裸体を不躾ぶしつけに眺めるとは、余程命が惜しくないと見える」


 嗚呼、今日は良い日だ。

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