11-3 音の正体

 ――ずりずりずり……。


 音が変わった。遠くから聞こえきていた音が近くなっている。音の発信源は、確実に未咲の方へ向かってきていた。未咲の心臓が騒ぎ立てる。今すぐその場から逃げろと、訴えている。


 パキッ。

 木の枝が折れる音。刹那、未咲は素早く立ち上がり駆け出した。


 かろうじて見える草木の影をかわしながら走る。道に差し掛かる細い枝や葉が頬を傷つけ、身にまとった着物がはだけ、剥き出しになった足が草で切れてもお構いなしに走った。痛みなど感じない。未咲は必死だった。


 村に、村の結界の中にさえ戻れば、きっと何とかなる!


 何度か転んでも、すぐに立ち上がり山を下る。しかし、永遠に続いているのではないかと思うほど終わりは見えない。心に諦観ていかんにじみ始め、未咲は自身を叱咤しったした。


 ドォォオンッ! 


 大地を揺るがす地響き。次いでバキバキ……と何かが破壊される音が聞こえた。これはおそらく、木が折れる音。未咲はすぐ側の幹にしがみつき、ビリビリと地面の震えが収まるのを待った。世界が揺れているのか、自身が震えているのか、最早もはやわからなくなっていた。はあ、はあ、と自身の荒い息が妙に大きく聞こえる。

 再度足を踏み出そうとして、かくっと膝が折れた。もう、走れない。


 どうしようどうしようどうしよう!


 考えたところで身体が動くようになるわけではない。先ほどまで走り続けていられたのが奇跡だったのだ。未咲は恐怖と焦りでどうにかなってしまいそうだった。吐き気がする。胸が痛くて、苦しい。

 背後にずるずると音が迫る。シュー……と細く息を吐き出すような音も耳に入り、未咲はぞわりとした。おそるおそる上半身をひねり、背後を向く。


「あ……ああ」


 言葉は形を失った。

 月の光は、すべて“それ”に奪われてしまったのではないかと思った。

 金色に輝く双眼が、闇の中で炯炯けいけいと浮かんでいる。

 頭のてっぺんから血の気が引いていくようだった。

 口腔こうこうが乾ききっている。悲鳴が喉元までせり上がってきているのに、喉が引きるだけで声にならない。


 音の正体は――大蛇だ。


 大蛇の体躯は通常のそれより幾倍も大きい。目の前にそびえる影は、周囲の木々の影が小さく見えるほどであった。時折金色の双眼の間にちらちらと映る細い影は、恐らく舌だろう。舌を挟むように、鋭い白い影も見えて、それは獰猛どうもうな牙なのだと理解した。未咲の脳裏には、大蛇の大きく裂けた口が開かれ、自身が無惨にも丸呑みにされる瞬間がぎった。


 未咲の世界から音が消えた。

 密室に閉じ込められたかと思うほど、何も聞こえない。未咲の荒い息遣いも、大蛇の噴気ふんき音も、枝葉が揺れこすれる音も、何も。

 大蛇はゆっくりと、静かに、身体を斜めに起こした状態で未咲に近づいてくる。未咲は地面にへたり込んだままその様子をぼんやりと見つめていた。


 わたし、死ぬのかな。未咲は突然、“死”という存在がすぐ隣に現われたように思えた。

 この蛇にぱくっと丸呑みにされちゃって、お腹の中でじわじわ消化されるのかな。それってやっぱり、痛いのかな。嫌だな、どうせ死ぬなら、ひと思いにやってほしいのに。


 未咲の脳裏に、祖父母に引き取られた頃からこれまでの記憶がアルバムをめくるように駆け巡っていく。これが走馬灯か。ほんの二ヶ月ほど前までは、わたしはこれからも平々凡々な人生を送っていくものだと思っていたのに。恋人すら、出来たこともないのに。

 記憶のアルバムの最後は、いつか見た雅久の横顔だった。

 結局、雅久の素顔は見られなかったな、残念。わたしが死んだら、雅久はどう思うのだろう。泣いてくれたり、するんだろうか。


 ――へえ……そんな子居たんだ。


 何故か、雅久のことを話した時の寧々の言葉が聞こえた。未咲の指先がピクリと動く。


 わたしが居なくなったら、雅久は一人で生きていくの?

 村の外れに住んでいる雅久を知っている人は正芳くらいしか居なくて、他の人は見かけたことがあれば良い方で。他の人に会ってもらう計画だって、まだ何も進んでいないのに。わたしが死んで、正芳さんも亡くなったとしたら、その後は?


 ――俺はこの村の人間ではないから。


 寂しそうに、


 ――お前は、馬鹿だ。


 遠い場所で、一人で生きるの?

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