11-2 迷い込んだ夜

 緩やかな傾斜けいしゃが続くその道を、時折顔や腕にぶつかってくる枝葉を手で払いながら駆けていく。視界にかろうじて老人の後ろ姿があるものの、走っている筈の未咲は歩いている老人に追いつけない。ずっと一定の間隔かんかくで、老人と未咲はつかず離れずの距離を保ち続けている。未咲が着物で、いつもより走りにくい状態であったとしても、あまりにもおかしいことであった。


 ピッと細い枝先が未咲の左頬を掠め小さな切り傷を作った。未咲は反射的に左目をつむる。その拍子に身体はバランスを崩し、倒れそうになってぐっとこらえた。大きく踏み出した右足がドンッと地面を叩き付け振動が膝まで伝わる。未咲は顔をしかめ、その場に立ち止まった。すっかり切れた息を整える。坂道を走り続けて、動悸が激しく、胸が苦しい。未咲は両膝に手をついて肩を上下させる。ふっと顔を上げると、視界にあった筈の老人の姿はなくなっていた。落胆して大きく息を吐く。


「……はあっ、疲れた……」


 声に出すとさらに身体が重くなった気がする。未咲は折っていた腰を元に戻し、老人のことは諦めて村に戻ろうと来た道を振り返った。


「え……?」


 闇がそこにあった。

 バッと空を見上げると、枝葉の隙間から見える筈の青空が夜に染まっていた。どくり、と心臓が大きく波打つ。どうして。なんで。唇がかたどった言葉は声にならず闇に溶けた。


 この山に入った時、太陽は真上にも昇っていない朝であった。だというのに、何故夜になっている?


 未咲は顔を元の位置に戻し、辺りを見回した。山に入れば木々が光を遮って薄暗いものではあるけれど、これはそういう暗さではない。方向感覚を失ってしまうような、闇。今日は月の光が降りない朔の日だということを、未咲はようやく思い出した。夜空をまたたく星々の光だけでは心許こころもとなく、未咲の行く道を照らしてはくれない。


 早く、早く村に戻らないと。

 未咲はもと来た道を戻ろうと足を踏み出した。瞬く間に心に立ち込めた不安や恐怖が足を震わせて覚束おぼつかない。未咲は今にも泣きそうだった。ある程度周囲の様子はわかるけれど、確かな明かりがないため、手探りで進むしかない。真っ直ぐの道ではあった筈だが、本当にこの方向で合っているかも確信が持てず不安で仕方なかった。


 手探りで木の幹に触れながら慎重に進む。木に触れた時、未咲は自分の手が小刻みに震えていることに気づいた。陽も落ちて肌寒い空気が辺りに満ちているが、この震えは寒さのせいではないと理解していた。

 前回の朔の日のことを思い出して、ぞくりとした。あの時も、展開は急だった。でも、決定的に違うのは、御神木の場所に一人放り出された時は夢だったけれど、今回は現実だということだ。致命的で、絶望的かもしれない。もし今、鬼に襲われでもしたら? わたしなんて、一溜まりもないのではないか。未咲は胸元で揺れている石をぎゅっと握った。


「あっ!」


 ずるり、と足元が滑り、未咲は尻もちをついた。打ち付けたところがじんじんと痛み、うぅ、と唸りながら臀部でんぶをさする。


 ――……ずるずる……ずる……。


 耳が何かを引きる音を拾った。未咲はバッと辺りを見回す。音の感じからして、距離はまだ遠い筈だ。息を殺す。神経を尖らせて周囲の様子を注視し、耳を澄ませた。

 この音は、きっと、夢でも聞いたものと一緒だ。

 一体、何処から聞こえてくるのだろう。正体はわからないけれど、見つかったら不味いということだけはわかる。隠れなければ。


 ゆるすまじ、つくよみ。


 怨念が凝縮されたあの声がよみがえる。知らず荒くなり始めた息を抑えるために口元に手を押し当てる。土の匂いが香った。

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