10-3 近くて、遠い人

「雅久は、何もない? 元気?」


 前のめり気味になって尋ねる未咲に、雅久はくくっと笑って、


「ああ、元気だよ。何事もなく、平和だった」


 と、可笑しそうに言った。未咲は照れ笑いを浮かべる。


「良かった。宗一郎さんが山菜を採りに行った時、変なことが起こったって言ってたから」

「宗一郎?」

「あ、宗一郎さんは、わたしよりいくつか上の男の人なんだけど、仲良くしてくれてて」

「……そうか、良かったな」


 雅久は幾分いくぶん低い声で返した。


「うん、ありがとう」

「そいつが言っていた変なことというのは?」


 未咲は目を丸くした。雅久が人のことを「そいつ」と呼ぶなんて、初めて聞いた。声の響きも何処か粗野そやな雰囲気で、意外に思う。でも、思い返してみればわたしのことも「お前」と呼んでいるし、きっとそういうものなんだろうな。


「えっと、突然、木が独りでに大きく揺れたみたい。揺れたのはその木だけで、風に揺れた感じでもなかったって」

「まあ、山の中ではそんなこともあるだろうな」

「そ、そうなのかな……?」


 何だか素っ気なく感じるのは気のせいだろうか。未咲は雅久の態度に戸惑った。こんな時は、雅久の素顔を隠す狐面が恨めしく思う。隙をついて外せないだろうかと、狐面と顔を結ぶ赤い紐を凝視した。

 そんな未咲の様子に気づいた雅久は未咲に顔を向け、


「取るなよ」


と、釘を刺した。未咲は慌てて狐面の紐から目を逸らす。


「ご、ごめん。取ったりしないけど、でも、気になりはするかなー……なんて」

「取れない理由があるんだ。答えられないから、訊くなよ」


 雅久は苦笑混じりに言った。わかってはいたけれど、未咲は残念に思った。声色である程度の表情は想像出来るけれど、素顔を知らないというのは寂しいものだ。

 若干気まずい空気が混ざり始めて、未咲は咄嗟とっさにふと思い出したことを口にした。


「そういえば、宗一郎さんが雅久に会ってみたいって言ってたよ」

「俺のことを話したのか?」

「うん。わたし、一人で此処まで来ることが多いから……何してるのか気になったみたいなの。それで、御神木のことと、たまに雅久と会うことも話して」


 未咲は宗一郎と話した時のことを思い返して、ふふっと笑う。


「そうしたら、雅久のことを危ない奴じゃないのかって言うの」

「間違いではないんじゃないか」

「えっ。何でそんなこと言うの? 全然、危なくないじゃない」

「……じゃあ、お前は何て答えたんだ」


 未咲はふにゃりと顔をほころばせた。


「凄く頼りになる人だよって言ったの」


 すると、雅久はたっぷり間を空けた後、


「馬鹿だな」


と言って、ふいと顔を背けた。未咲は可笑しそうに、身をかがめて雅久の顔を覗き込む。


「もしかして、照れちゃった?」

「……違う」

「ふふふっ」


 泣きたくなるほど優しい時間だと、未咲は思った。この瞬間だけは、頭を悩ませている問題が些細ささいな悩みと思えるほどだった。自分に出来ることは限られているのに、何でも出来るような気になってくる。


「お前は……」


 雅久が未咲を向いて、ぽつりと呟いた。未咲は言葉の続きを待つ。すると、雅久は空を仰いで黙り込んでしまった。

 葉と葉が擦れる音が辺りに響く。

 雅久の横顔に落ちた影が揺れる。

 きらきらと光の粒が散りばめられた灰色の髪が風にさらりとなびいた。


「お前は、馬鹿だ」


 零れ落ちた言葉は、風にさらわれて消えていった。

 その時、未咲には、雅久が何処か遠い場所へ行ってしまいそうに見えた。

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