10-2 心の鎖

「おはよう」

「ああ、おはよう」


 恥ずかしいだの何だのと言って雅久を避けていた時間が、酷くもったいなかったと感じた。姿を見るだけで、言葉を交わすだけで、こんなにも嬉しい気持ちが溢れてくるのに。どうして会わないようにしたのだろう。未咲は自分の心が不思議だった。

 雅久の隣に腰を下ろして、両膝を立てて腕で抱える。


「最近は、忙しかったのか」

「え? あ、ああ、うん。ちょっとね」


 未咲は苦笑した。勝手に気まずくなって勝手に避けていたとは言いにくい。


「畑仕事とか、田植えも手伝って……あと、熊五郎っていう犬のお世話もしたな」

「熊五郎?」


 雅久の声はいぶかしげだ。雅久も犬に「熊」と名付けるセンスが疑問なのだろうと、未咲はにやっと笑う。


「小さい柴犬なの。可愛いんだから」

「熊五郎なのにか」

「熊五郎なのに」

「可笑しいな」

「可笑しいでしょ」


 ふふっと二人で笑い合う。未咲はこんなたわいもない会話が楽しくてたまらない。ずっとこの時間が続けば良いのに、と思う。雅久も同じ気持ちなら、凄く嬉しい。


「何か、変わったことはないか」

「わたしが実際に見たわけじゃないんだけど……」


 雅久に尋ねられ、未咲は宗一郎から聞いた話をそのまま雅久に伝えた。


「他には、何もないか」

「うーん」


 未咲はうなった。祖母のことや、狼に石のペンダントの話を雅久にすべきか、判断に迷う。何のことだかわからないのに、雅久に伝えて困らせてしまうのが嫌だった。けれど、雅久なら何か知っているのではないか、とも期待してしまう。ただ、それで雅久が教えてくれた試しもないのだけれど。


「不思議な夢を見た、かな」

「また、恐ろしい夢を見たのか」


 雅久が気遣うように未咲に尋ねた。未咲はううん、と首を横に振って微笑む。


「内容はよく覚えてないんだけど、怖い夢ではなかったよ」


 本当は鮮明に覚えているけれど、未咲は黙っていることに決めた。少し後ろめたがったけれど、心配掛けたくないのと、雅久にまた「元の世界に戻ることだけを考えろ」と言われるのが怖かった。

 わたしはわたしの世界に帰りたいのか、帰りたくないのか、自分の気持ちがよくわからない。我ながら厄介な恋をしてしまったものだと、未咲は密かに思う。


 世界には、生きていくための様々なルールが存在する。そんな中でも「心は自由だ」と、これまで何度も聞いたことがあって、未咲もそれに賛成だ。でも。

 世界と世界の境界を越えて恋をして、未咲は実感した。心だって結局、縛られてしまうじゃない。

 叶わない想いを抱いて、ダメだとわかってるのにその心をはぐくんで、でもやっぱり、許されないことだからって、自分を抑えて。


 世界に蔓延はびこる見えない鎖が絡まって、自由である筈の心も雁字搦がんじがらめにされる。出来ることと言えば、その心を秘めやかに守り続けるだけで、それを「自由」と呼べるのか、未咲には答えを出せない。「自由」が何なのかすら、よくわからない。けれどもやはり、不自由だと感じた。


「そうか」


 雅久はそれ以上何も訊かなかった。未咲は良かった、とも思ったし、ほんの少し残念にも思った。

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