9-2 異変と想いの雫

「親父が絶対に動くなって言うから、身動きしないで、息も殺して収まるのを待った。“そういうこと”が起こった時に下手に動くと、連れ去られるらしい」

「つ、連れ去れるって誰に?」


 熊五郎が宗一郎の手を頭で突っついて「撫でて」と催促している。宗一郎は山での出来事を思い出しているようで、それにさえ気づいていない。未咲が代わりに熊五郎を引き寄せ抱き上げてやる。熊五郎はパタパタと尻尾を大きく振って嬉しげだが、未咲もまた熊五郎から宗一郎に視線を戻した。


「……さあな。親父の言うことだから、多分、この村で起こる怪異って奴に関係あるんだろうけど」

「それって、人間でも動物でもない何かが村の人たちを連れて行っちゃうってこと……?」


 未咲はおそるおそる尋ねた。この村の爺婆以外は怪異について何も知らないようだが、不可思議な現象や“鬼”の存在を知っている未咲にとっては冗談で済まされない話だ。


「親父の言う通りなら、多分そうだよ。俺はそういう不思議な体験はなかったけど、山の中じゃ、何が起こってもおかしくないと思ってる。実際に親父も、他の年配の猟師たちも、何度かそういう経験があるみたいだし」


 はあ、と宗一郎はがっくりと肩を落として溜息を吐いた。


「なんか、最近変だ。この村」

「え?」

「よくわからないけど、変な感じがするんだよ。信じられないかもしれないけど、何か、大変なことが起きそうな気がするっていうか」


 信じられないわけがない。未咲は熊五郎をぎゅっと抱き締める。不安だった。もし怪異を招いたのがわたしだったら、どうしよう。


「うん……わたしも、そう思う」

「え、未咲も?」

「ねえ、その楓が独りでに揺れた後は大丈夫だったの?」


 未咲は宗一郎の問いかけには答えず、山での出来事について尋ねた。宗一郎は頷く。


「皆で親父の言う通りにしてさ、しばらくしたら揺れは収まった。けど、今日はこの辺にして帰った方がいいって親父が言うから、戻ってきたんだ」

「宗一郎さんのお父さんは何処に居るの?」

「村長のとこ。報告するんだって」


 宗一郎は大きく息を吐いた。それから左手で頭をがしがしとく。未咲は宗一郎の顔色があまり良くないことに今さら気づいた。


「もしかして、具合悪い?」

「え? ああ、いや……何か、気味悪くて。体調が悪いわけじゃないんだ」


 憂鬱ゆううつな影を漂わせる宗一郎を、未咲は気の毒に思った。こんな時は一人で居るのも怖いだろうから、宗一郎が望むのなら、このまま話し相手になっていてやろうと決めた。


「心配してくれてありがとう」


 一変して、宗一郎ははにかんだ。少し青白かった顔に赤みが差している。未咲は首を横に振って、


「宗一郎さんたちが無事で良かった」


と、微笑んで言った。宗一郎もにこりと笑う。


「まあとにかく。今日は山には入らない方がいいぞ」

「うん、行かないようにするね」


 未咲は素直に頷いた。


「本当に大丈夫か? お前、山に行くこと多いだろう。何しに行ってるのかはわからないけどさ」

「うん。今日は行かないよ」


 頷いて、そういえば最近雅久に会っていないことに気づいた。というより、未咲が雅久に恋心を抱いていると認めてから会いづらくなってしまって、意識的に御神木の場所へ行くのを避けているのだ。雅久は村に入ってくることがなくて、結果的に、雅久には会えない。仲直りしたのに――未咲が一方的に怒っただけだが――これでは喧嘩しているみたいだ。


 会いたくないけれど、会いたくてたまらない。未咲は矛盾した心を抱えていた。

 最初は、雅久への気持ちは吊り橋効果というものかもしれない、とも思った。心細い時には傍に居てくれて、恐ろしい目に遭った未咲をなぐさめてくれて……頼れる人の少ない未咲には、余計に魅力的に映ってしまい、故の憧れなのだと。


 けれど、はからずともこうして距離を置くことによって、雅久への想いは少しずつ膨らんでいった。朝露が青葉から零れ落ちて地面に染み込んでいくように、未咲の心にも一滴、また一滴と、想いの雫が染みていくようだった。雫は既に未咲という存在の一部となって、なかなか消えるようなものではない。最早もはや、未咲にコントロール出来るものでもないのだ。


 近くにいる歳の近い男性であれば、宗一郎だってそうであろうに。未咲は事あるごとに、雅久を頼りにしている。その違いは、一体何なのだろう。

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