第8話 夢

8-1 ある少年の夜

 月が雲に隠れ、真の闇に包まれた晩だった。

 霧のような細かな雨が夜気に満ち、しっとりと濡れた草木の匂いが辺りに香っていた。

 ことり。

 文机ふづくえの上に白い狐面が置かれた。同じく文机の上の灯明皿とうみょうざらに灯された火が面を照らし、狐の顔が橙色だいだいいろに染まる。


 狐面を外した者は灰色の短い髪をした少年だった。十代後半に差し掛かった辺りの年頃に見える。鼻筋が通る美しい顔は難しそうに歪められ、胡座をかき、腕を組み、何かを考え込んでいるようだった。

 ゆらゆらと揺れる火が少年の顔に影を落とす。

 雨の降るよいは冷えた空気が身体の熱を奪っていくものだが、少年は薄手の着物をまとい寒そうにする様子もない。


 形の良い唇が薄く開き、細く短い息が吐き出された。組まれていた腕が外され、左手が床に置かれた刀を取る。胸の前まで持ち上げ、右手がつかを握った。すっとさやから刀身をりの前まで出し、火の橙色がかたどる刀の輪郭をじっと見つめている。


 ざわり。

 一瞬で怖気おぞけ立つような陰湿な空気に変わった。風もないのに、灯明皿の火が大きく揺れたと思うとふっと消えた。部屋を照らす唯一の明かりがなくなり、少年は闇に抱き締められる。


 ――嗚呼……嗚呼……。


 何者かの嗚咽おえつが聞こえる。女の声だ。遠くから聞こえるようにも、近くから聞こえるようにも感じる。

 闇の中で、少年は刀身を鞘に納め、再び刀を身体の左側に横たわらせた。


 ――あの女……あの女の気配だ……恨めしや。嗚呼……。


 少年はその声を静かに聞いていた。特に応えることも、訊くこともなく、女の恨み言と泣き声を聞いてやる。それが一番良い方法であると、少年は理解していた。


 ――どう殺してくれようか……なあ、雅久……。


 少年は答えなかった。ぴり、と夜気に女の怒りが含まれる。


 ――雅久や……愛しい雅久。何故答えぬのか。


 女の声は止まない。


 ――まあ良い。赤い月の晩を楽しみにしておいで。我が愛しき人よ。


 ふふふ、と女の笑い声が響く。いやしい、気味の悪い笑みだ。それでいて妖艶ようえんさの含まれる、おぞましい声である。


 ふっと部屋中に立ち込めていた陰気が雲散した。


 少年は刀を左手に持って立ち上がり、草履ぞうりを履いて、立て付けの悪い木戸をガタガタと引いた。


 遠くに見える山々の間に微かに朝焼けがにじんでいる。

 間もなく、夜が明けようとしていた。

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