2-3 きつねの窓と御神木
未咲は
「……様がお戻りに……」
一体誰が戻ったというのだろう。未咲は正芳の横顔を見つめた。感動に打ち震えているようにも、何かを恐れているようにも見えた。
見られていると気付いた正芳が未咲に顔を向ける。未咲と目が合うと、正芳は取り
「ああ、何でもないよ」
聞いてはいけないことなのかもしれない。未咲は浮かんだ疑問を胸の内に押し込めて緩く笑みを返した。
「あの、御神木に近寄っても大丈夫ですか?」
「勿論だとも」
未咲は小さく礼を言って、ゆっくりと御神木に近付いた。その様子を雅久がじっと見つめる。
昨夜立っていたと思わしき場所に立って、未咲は御神木を見上げる。
妙な気分だ。御神木の枯れている姿を見たと言うのに、こうして花を咲かせる様を再び見ることになろうとは。勿論、御神木が元気になったことは嬉しい。
顔の前にきつねの窓を作って、御神木を覗いてみる。昨夜はここで光に包まれて、目を開けたら桜が咲いていた。そして、雅久に声を掛けられた。
半身だけ振り返ると、雅久と正芳が変わらずに此処に居ることが確認出来た。落胆を隠せずに溜息を吐いてしまう。身体を戻して再び御神木を見上げた。
あなたが、わたしを連れてきたの?
心で尋ねた。あなたがわたしをここまで連れてきたのだとしたら、その理由を教えてほしい。もしただの
そよそよと風が髪を撫でていく。ふわりと前髪が目に掛かって、左手で前髪を耳の方へ避ける。
期待をしていたわけではない。……いいや、本当は少し期待していた。此処に来れば、来てしまった時と同じことをすれば、何事もなかったように元の世界に帰れるのだと。
「気になったんだが」
いつの間にか未咲の傍まで来ていた雅久が言う。
「先ほどの構えは何なんだ?」
「あ、これかな? きつねの窓って言うんだけど……」
再びきつねの窓のポーズを取って雅久に見せる。御神木を一心に眺めていた正芳も興味深げに未咲の両手を見ながら歩み寄ってくる。
「わたしの世界のお話なんだけど、こうして指で窓を作って覗き込むと、そこに自分が見たいものが映るっていう……」
そこまで言ってハッとした。自分はあの時、御神木が花を咲かせた姿を見たいと思って窓を覗き込んだ。もしかして、それでわたしの願いが叶って御神木が……。
いやいや、と首を振る。きつねの窓の話はあくまでも絵本の中のことだし、それは
「それは面白い」
「でも、あくまで作り話ですから」
「なら、何故その構えをしていたんだ」
正芳が笑みを浮かべて頷く中で雅久は尋ねた。
「お祖母ちゃんから絵本を読んでもらった時のことを思い出してね」
と、未咲は眉尻を下げて笑う。
「それが『きつねの窓』っていう絵本だったんだけど……懐かしくなって。それに、またこの木が花を咲かせた姿を見たいと思ったから。だから、願いを込めてというか、また見たい、見させてって思いながらきつねの窓を覗いたの」
「……お前の祖母か」
雅久が
奇妙な感覚だ。未咲は眉根を寄せて胸の辺りを手で押さえた。その正体が何なのか考えている内に、別のことを思い出した。祖母の言っていた言葉だ。そして、一番の手掛かりになるかもしれないこと。
「そういえば、おばあちゃんが言ってました。『私とおじいちゃんは、異なる世界で出会ったのよ』って」
ざわり。空気が揺らいだ。
一瞬で張り詰めた空気に変わり、未咲の身体は緊張で
恐る恐る雅久や正芳の顔色を
「ああ……すまない。驚いてしまってね」
と、正芳は取り繕うように笑う。しかし、未咲には気づかない振りが出来なかった。一瞬目を伏せ、キッと表情を引き締め正芳と目を合わせる。
「もしかして、何か知っているんでしょうか。おばあちゃんや、おじいちゃんのこと……わたしと同じように、この村に来たことがあるんじゃ」
「何も知らぬ」
未咲の言葉を
先程まで穏やかだった風が、少し強くなったように感じる。三人の間にはピリついた空気が流れ、未咲は息が詰まるようだった。
正芳は『異世界の人間がやってきた例が無いわけではない』と言っていた。けれども、自分は伝え聞いた程度で真偽はわからない、とも。でも、でも、先程の反応は……。
「そろそろ戻ろうか。御神木が蘇ったことは確かのようだな。本当に、嬉しいことだ」
「正芳さん」
「元の世界に戻る方法が見つかるまで、儂の家に住まうと良い。文子も孫娘が出来たようで喜ぶだろう」
取り付く島もなく正芳は言った。未咲は不安と焦りでどうしようもなくなり、右手で左腕をぎゅっと掴んだ。目の奥が熱くなって涙が溢れそうになるのを必死に
どうして嘘を吐かれるのだろう。どうして誤魔化されるのだろう。正芳の反応は、絶対何か知っている筈なのに。怖い。一体わたしに、何が起こっているのだろう。
「……わかり、ました。ご迷惑をかけてしまって、ごめんなさい。よろしく、お願いします」
未咲は顔を伏せて絞り出すように言った。此処で何を言っても、きっと何も取り合ってはくれない。それがわかっていたから、未咲はそれ以上何も言えなかった。
底なし沼に足を取られていくようだ。未咲は足が
「……すまないね」
小さく、正芳が呟いた。未咲には、それが何に対する謝罪なのかわからなかった。
※安房直子 著『きつねの窓』
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