第1話 未咲、異世界へ行く

1-1 生まれ育った場所で

 育ての親が二人とも亡くなってから一年経った。


 通っている大学が春休みに入り暇を持て余していた深山未咲ふかやまみさきは、ワインレッドのキャリーケースを引いて亡くなった祖父母が住んでいた地を訪れた。


 一時間に一本もないバスに乗って辿り着いたその場所は、都会では中々お目にかかれない青青しい山々に囲まれ、解放感溢れる田園風景が広がっている。心なしか身体を撫でていく風も都会のそれより柔らかい気がして、未咲は深く息を吸い込んだ。

 新幹線や電車、バスを乗り継いで数時間。固くなった身体を伸ばすと、未咲を取り囲む風景も相まって気持ちが良い。


 さて、次は長い坂を下りて祖父母の家におもむかなければ。


 未咲が降りたバス停は山の中腹にあり、これから山をぐるりと周りながら祖父母の家まで向かわなければならない。村の人口が少なくお年寄りが住んでいる村にはいささか厳しい土地だと感じる。それに交通の便も良くないし、娯楽もなし。田舎の穏やかで静かな暮らしが好きな人間なら長く住めるだろうが、今時の若者が留まるには難しいかもしれない。勿論、田舎の暮らしが性に合う若者だって居るだろうけれど。未咲はその一人だ。


 未咲の両親が離婚したのは四歳の頃だった。口喧嘩が絶えず、怒鳴るばかりの両親を恐ろしく思っていたことを覚えている。喧嘩の理由はわからなかったが、あれだけ言い争っていれば一緒に暮していけないことなど幼い未咲にも察することが出来た。両親の離婚後、親権は母親の手に渡ったが、母親は育児を放棄し祖父母に押しつけた。幸いにも祖父母は未咲を大層可愛がっており、それから東京都内の大学に進学するまで、未咲は祖父母の家で大切に育てられた。


 その間、確かに都会と比べて買い物も不便だし娯楽などもないけれど、未咲は祖父母の暮しに不満などなかった。四季折々の姿を見せる山や森、田園風景、鳥や虫の鳴き声、鼻腔をくすぐる土や草の匂いも、その場所を彩るすべてのものを未咲は愛している。

 その愛した土地に、久しぶりに帰ってくることが出来た。大事に大事に育ててくれた祖父母が居ないことは非常に残念であるけれど、思い出が沢山詰まっているこの土地をもう一度踏みしめることが出来て思わず涙が溢れてしまいそうだ。


 キャリーケースが勝手に転がっていくことのないように気をつけながら坂を下りていく。こうも静かな場所だと、ガラガラと車輪が擦れる音が余計に響いてしまう。民家が近くにある訳でもないのに、どうにも居心地悪く感じた。


「あら、未咲ちゃん? 久しぶりだねえ」

「こんにちは。お元気そうで嬉しいです」


 途中すれ違う知り合いと挨拶を交わしながら、未咲は祖父母の家に到着した。

 一年近く放っておかれていた筈の瓦屋根の平屋は、未咲の記憶よりも少し寂れたように見える。荷物整理をしてほしいと頼んできた親戚が時々庭を整えてくれていたのか、何も植えられていない畑も雑草が少ない。


 玄関からは入らず、庭の方に回り縁側に腰掛ける。春の陽気に当てられていた縁側はじんわり温かくて心地が良い。未咲は空を仰いで深呼吸した。風に揺れるこずえの音が何だかわびしい。


 家の中に入ってしまったら、いよいよ自分を育ててくれた二人が居なくなったのだと実感せざるを得ない。


 もう別れの挨拶も済ませているというのに、未咲はまだ二人が自分を笑顔で迎えてくれることを期待している。先に祖父が亡くなった時は、祖母と一緒に笑う祖父の影がいつまでも消えなかった。そして今度は祖母が亡くなって、それでも、未咲は二人がこの世界から旅立ってしまったことを認識出来ずにいる。


 けれど、もうそうは言っていられない。大学の休みを利用して祖父母の遺品を整理しに来たのだ。いつまでも思い出に浸ったままではいけない。

 未咲は立ち上がり、ぐいと身体を空に伸ばした。


◆❖◇◇❖◆


 大方の作業が終わり、未咲は簡単に夕飯を済ませた。

 やはり、祖父母不在の家は広すぎる。

 未咲が物を動かす度に立つ音が心をざわつかせ、物悲しさが降り積もっていった。うっかり溢してしまった涙は畳に染みていき、自分が悲しんでいるのだと自覚してしまえば、涙は止めどなく流れた。


 一頻ひとしきり泣いた後は気を紛らわせるように作業に集中した。元々祖父母が遺していったものは少なくて、想像していたよりも早く終わってしまいそうだった。


 もっとじっくりと過去を振り返りながら整理したかったのだけれど、と未咲は畳の上に寝転がって息を吐く。

 まるで「早く前を向け」と言われているみたいだ。思わず息を漏らして笑った。


 それから暫く格子天井をぼーっと見つめていると、ふと御神木の存在が思い浮かんだ。

 御神木とは、祖母が教えてくれた桜の大木のことだ。その大木は丘陵きゅうりょうの頂付近にそびえ立っており、毎年春になると淡い桃色の花を咲かせ訪れる者の目を楽しませていた。訪れる者と言っても、御神木の元まで足を運ぶのは未咲と祖父母のみであったが。そもそも、その桜の大木を御神木と言って愛でていたのは未咲の祖父母だけだった。祖母曰く、他の村人たちはその存在すら知らないらしい。


 あんなに立派な桜の木なのに、どうして誰も知らないのだろう。


 御神木を一目で気に入った未咲は何度もそこへ訪れたけれど、春に咲かせる花も、夏の葉桜も、秋の紅葉も、冬の葉が散って枝に雪を積もらせたその姿も、すべてが美しいものであるのに、何故他の人々が見に来ないのか不思議でならなかった。


 久しぶりに、会いに行こうかな。


 もう日が暮れてしまったけれど、何だか居ても立っても居られなくなって、未咲は御神木の元へ散歩しに行くことに決めた。

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