【改稿予定】あえか月夜の恋は

椿 雪花

プロローグ

プロローグ

 その村を見守る月が赤く染まるまであと数刻もなかった。月が陰に覆われてしまった時、災いを封じ込める力はなくなり、あっという間に村を呑み込んでしまうだろう。それを防ぐすべは、最早もはやありはしない。

 男は赤子を抱いた女の手を引き山道を駆け上っていく。途中、息を切らした女が動けなくなると、もう少しだと励まし必死に歩いた。赤子を代わりに抱いてやることも出来たが、男は二人を守るためにもその選択をしなかった。

 明かりのない森林を進むのは危険な行為である。男の村でも、特に月が出ない夜は少し外に出ることさえ禁じられている。普段ならば決してしない。しかし、男はなりふり構ってなどいられなかった。手に持った松明だけを頼りに進み続ける。既に身体のあちこちを草や木の枝で傷つけているものの痛みは感じていない。

 森は不気味なほどに静まり返っている。風も吹かず、ただ男と女の荒い息遣いと足音だけが響く。

 終始、誰かに見られているようで落ち着かない。男は心臓がどくどくと波打つのを感じていた。じわりじわりと、嫌な汗がにじみ出てくる。

 ――……るさな……して……よう……。

 耳元で妻のものではない女の声が聞こえた気がして男はぞわりとした。勢いよく顔を横に向けるが、底知れぬ闇が広がるばかりで誰もいない。突然闇から何かが襲ってくるのではないかと恐怖を抱いた男は愛しい人の手を強く握りしめ再び歩き出す。不安をたたえて己を見てくる妻を気に掛けてやる余裕はなかった。

 許してくれ。すまない。すまない。

 男は小さく唱え続けた。背後からすすり泣く声が聞こえる。妻の不安や恐怖を思えば当然のことだった。しかし、今は抱きしめてなぐさめることも出来ない。男は唱える。

 許してくれ。すまない。すまない。

 酷く長く感じられた道程は終わり、眼前に淡い光を帯びた桜の大木が現われた。月の光もない夜にも関わらず、その姿ははっきりと見えた。

 男は安心感で脱力しそうになった。いや、まだだ。まだ、気を抜いてはいけない。男は叱咤しったし、大木の傍へと歩んでいく。

 根元まで辿り着き、とうとう男は膝をついた。その拍子に松明を地面に倒してしまいそうになり、慌てて身体を支えるように末端を地面に立てる。妻もまた、赤子を両手で抱え直しその場に座り込んだ。お互いに息が荒い。

 男は女の腕で眠る赤子の頬にそっと触れた。赤子が小さく唸る。この時ばかりは男の気も緩み、くすりと笑みを漏らした。

 男はしばらく赤子の柔らかな感触を楽しみ、やがて赤子から手を離してから大木を見上げた。ひらりと舞い散る花びらもまた淡い光を帯び、この世のものとは思えぬ幻想的な光景であった。

「どうか……」

 男と女は祈った。この赤い月の夜を無事に越えられるようにと。

 ――赦さない……どうして……ようか。

 ぞくり。

 先ほどよりもはっきりと聞こえた声に、男は素早く立ち上がり両手で松明を構えた。身体は小刻みに震え、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。

 途方もない闇が迫ってくる。かろうじて見えていた木々の影が闇に呑まれていった。

「どうか……どうか、この子だけは……」

 女がぎゅっと赤子を抱きしめ、震える声で懇願こんがんする。

 ――どうしてくれよう……どうしてくれよう……。

 憎しみや怒りが凝縮されたような、身の毛もよだつ声だ。全身の力が抜け、男はその場にへたり込んだ。松明が手から離れ地面に転がる。

 松明の火は、とうに消えていた。

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