130日の休暇

古池真矢

第1話

『少しお仕事、休みましょう』

ある秋の日のこと。

病院で診断の結果、一枚の書類を渡された。

「適応障害」の文字に私の頭の中で疑問符が飛び交った。

適応障害とは一体なんだろうか?

だが、そのことに関して主治医に追求することはなかった。

正確にはできなかったと言った方が正しい。

そんな余裕は当時の私にはなかったのだ。


ただ一つだけはっきりしていることがある。


――ああ、私はやっぱり病気なんだ。

これで会社を堂々と休める。しばらくは行かなくていいんだ。


なんとも不謹慎な話だが、この時は素直にそう思った。


数ヶ月前から体調の異変を感じていた。


電車に乗ると息苦しさや異様なまでの喉の渇きに加え、吐き気、ひどいときには全身の痺れを感じようになった。時間にしては10分もない。

マスクをしないといけない状況下だったが、それすら苦しくてたまらない。

気になり内科で精密検査をしたが、なんの異常もなかった。


もしかしたら朝の満員電車がつらいのかもしれない。

朝早く行くなど、時間ずらして自分なりにできることを試してみたが、あまり効果はなかった。

症状が酷いときは一駅乗っては降りてを、繰り返していた。20分で着く経路に倍の時間かかった時もある。たった数分乗ることすら難しくなっていた。


少し勤務時間帯などを変えてもらえないかと何度か上司に相談してもまともに取り合ってはもらえなかった。


当時の職場は自分と全く合わず馴染めなかった。

それでも一人だけいつも気にかけてくれる上司がいたから今までがんばれた。

そんな矢先、その上司の異動があった。

前々からそうなることは決まっていて、覚悟はしていた。


大丈夫、何とかなるさ。

と思っていた。


新しい上司が赴任し、職場の雰囲気は以前とそう変わらないように思えたが、少しずつ私の居場所がなくなっていくようなそんな気がした。


例えるなら真っ暗で、そこに誰かはいるのに、手を伸ばしても何にも届かない。大きな透明な壁に阻まれている。

(気のせいじゃない? 徐々に慣れるよ)

そう思いたかった。必死に職場の人とコミュニケーションを取ろうと試みた。

だが、日に日に孤独感が増していく。


前の上司の時は皆で協力して仕事を進めていた。

だが異動した上司がいなくなってからは、同じ職場の後輩は私に相談することなく独断で仕事をするようになった。

どうして? と思うことが多くなったが、じっくり話す機会もなく、私の中でもやもやとしたものが溜まっていった。

その後輩も異動した上司を慕っていて、とても寂しがっていた。その穴を仕事で埋めるためにがんばっていたのかなと今になってみれば思える。

だが、当時の私はそんなことを考えられる余裕もなかった。

新しく赴任した上司は穏やかで優しい方だった。時間をかければ良好な関係を築けるだろう。

だが、私にはもう時間をかけて関係を築くだけの余裕はなかった。


なんでこんな思いしてまで仕事しなきゃいけないの。私、ここにいて意味ある?


――苦しい。もうやだ。逃げたい。

いつしか自分の存在意義ばかり考えるようになっていた。毎日気持ちが落ち込み、何に対しても無気力状態だった。


またいつ襲われるか分からない発作への恐怖と闘いながら、それでも休まず、遅刻早退もせず通勤していた。

心身共に限界を迎えたのは上司との面談だった。


『早くて異動は再来年の春だね』


言われた瞬間、何かがぽきっと折れた。


ーー後一年半も頑張れない。


その日の帰りには電車内で強烈な発作に襲われ、本気で死んでしまうかとさえ思った。


そして数日後、朝、起き上がることが出来なくなった。腰に激痛が走り、まともに動かせない。骨でも折れているのではないだろうかと思った。

私はなんとか這いつくばるようにして、スマホをとり、実家の母に助けを求めた。

一人暮らしである私に母は何事かとすぐに来てくれた。

私は支えてもらいながらなんとか起き上がり、母の握ってくれたおにぎりを食べながら泣いて胸の内を話した。

病院にかかったのはそれから数日後だった。

正直なところ「パニック障害」かと思っていた。よく似た症状が出ていたからだ。

だが、「パニック発作」であり「適応障害」であったのだろうと今になって思う。

診断結果、翌日から休職になった。


当時休むことに罪悪感はなかった。私がいてもいなくてもあの職場は変わらない。

とにかく気持ちが酷く落ち込みネガティブになっていたのは覚えている。


診察を終えた帰り道、張り詰めた気持ちが切れて涙が出た。

(しばらく、休もう。だってさ、私、仕事十六年も頑張ったから)

ちなみに腰の痛みは病院に行き、数日後には嘘のように消えていた。

どうやらこれも病気の症状の一種であったようだ。

判断能力も相当落ちていたので、何をわけでもなく必要最低限のことをして、後はひたすら時が過ぎる、流れに身を任せ、ボーっとしていた。


大好きだった本、チラシなどの文字すらまともに読めなく頭に入らなくなっていた。そこが一番つらかった。


休職して十日経過した頃、少しずつ体も楽になり気持ちが少し落ち着いてきたので、先のことを、今、ゆっくり休む為にすることを考え始めた。

体調が回復し、今の職場に戻っても多分事態は何も変わらない。


そう思った私はある上司に相談した。

内心とても怖かった。

でも言わないと伝わらない、と思った。

責められたらどうしよう。事実、頼りにしていた別の上司に相談した時に正論を言われ、酷く落ち込んでいたからだ。

そんな不安を抱えながらも電話をかけた。

指が、喋る声が震えていたのは今でも覚えている。

上司は私の話を聞いたあと、翌日喫茶店に呼び出し人事担当の人を引き連れ、共に私の話をじっくりと聞いてくれた。

そして私の現状を理解し、復帰に関して配慮すると約束してくれた。相談してよかったと心の底から思えた。

張り詰めていた気持ちが緩んだのか帰り道、ほんの少し涙が出た。

(私、これでまた働ける?)

そう、私は仕事が嫌なわけではなかったのだ。

ずっと頭の中にかすみのようなものがかかっていたのが少し感じがあった。気持ちもだいぶ落ち着いてきたのもわかる。

きちんと病気と向き合おう適応障害のことやパニック発作に少し調べるようになり、本も買った。


適応障害とは、生活の中で生じる日常的なストレスにうまく対応することが出来ず、不安感や行動に変化が現れて社会生活に支障をきたす病気とされている。


治療法としてはまずはそのストレスから徹底的に離れること。それについて考えないこと。

その点では休職は一番の効果的な治療法と言われている。合わせて薬も処方された。

ストレスに関係があるもの、職場の人達との連絡も最低限に留めた。

その甲斐あってからひどい落ち込み状態は二ヶ月程度でなくなった。


また、パニック発作は、心理的な原因のほかに、脳神経機能の異常も関わっているといわれている。

百人に一人はかかると言うので特別珍しくはないものだ。

私の場合は電車に乗る、乗ろうとするくらいから胸の痛みや動機息苦しさ、吐き気があった。

そこまでひどくないと思ったが、今でも症状が出るときはある。

これに関しては怖いからといって電車を避けても乗れる日は来ない。

少しずつ、出来るペースで……駅まで行く、ホームに行く、一駅だけ乗るなど、徐々にならしていくしかないとも主治医に言われた。

色々なことがはっきりし始めたが、一人で暮らしていたので不安はあった。

離れて暮らす両親はつらいなら帰っておいでと言ってくれ、ほんの少し甘えることにした。

とても恵まれた環境だったと思う。

一人で過ごすと余計なことを考えてしまうから。


何をしていたかと言えば、あまり頭を使わない種類のゲームをしていた。

ゲームは昔から好きでずっとやりたかったので没頭できた。


睡眠時間は殆ど変わらず、ほぼ毎日同じ時間には起きていた。

食欲も旺盛、文字通りダラダラしていたが、朝晩のリズムは変えないように意識していた。

それも実家での生活のおかげであろう。

まさに上げ膳据え膳、快適な生活だったが、唯一困ったことは体重がかなり増えてしまったことだ。薬の影響も多少あるだろうが私の場合は運動不足が主な原因だった。


休職して一月経過した。復職はまだ早いと言われ、休職が延びた。

とはいえ経過は良好、一月後の年明けには復帰出来るかなと思っていたのであまり深く考えず、ゆっくりしようと思った。

意欲が少しずつ戻り、この頃から日記と朝の体操を始めるようになった。

この二つは今でも続いている。


そして休職して二ヶ月経とうとする頃、職場から復職を促す連絡が来た。

かなり焦った。まだ仕事に対する意欲がわかない。その上、超繁忙期であった。

(自信がない。怖い)

こんな状態ではまた再発する可能性が高いとなんとなく感じた。

主治医とも相談し、復職は延期になった。


そして年明け頃、仕事をしない毎日に少し飽きている自分がいた。

(働きたい、そろそろ大丈夫かな)

そんな気持ちになっていた。

社会に出たい。心の底から強く願った。

だが、会社都合で復職は早くても1月半後と告げられ愕然とした。

私の仕事への前向きな気持ちはしょぼんと縮んでいく。

その気持ちをひたすら文字に書いた。

そして冷静になって見つめ考えていた。

(だったら、仕事復帰するまで自分のしたいことやればいいじゃない?)

そんな風に考え、やりたい事を書き出した。

できるかできないかは別問題。とにかく自分の気持ちに素直に貪欲になった。

すると、やりたいことが思ったより出てきた。

今までもやりたい。と思っていたが、何かと理由をつけてやらなかった。

休職中の今、時間だけはたっぷりある。

やりたいならやればいい。

と半ば開き直ってチャレンジしてみた。

二つの創作コンテストと公募エッセイ。

自分なりに目標を立てて、そのために何をするべき具体案を紙に書いた。

日々の行動を意識するようになり、無事に目標を達成していった。

自分でも信じられないくらいだった。

今までの自分では予想もしないくらいの行動力だった。すごい進歩だった。

そのことが後々に自分に自信をもたらすことになった。

休職期間中、何度か実家にお世話になるとこともあったが、復職が決まっては一人で生活していた。一人でいても不安にならない。そこも大きな変化だった。

ひたすら自分の気持ちと向き合い、自分に寄り添うことを徹底した。

日記には日々の出来事はもちろんのこと、自分の感情を書き出していた。どんな悪い感情でもまずは外に出して、受け止める。そうすることで冷静になって考えられた。

今までは自分を全否定して向き合うことすら出来なかったので、大きな変化だった。

自分のことは自分しか分からない。

誰かにわかってもらう前に、まずは自分から自分を知ろう。そんな気持ちでいた。

自分と向き合う。そのおかげで今は以前より心穏やかに過ごせるようになった。

上手に感情の波と付き合えるようになった気がした。

これが認知療法と言うのかもしれない。

心を整え、これからは自分らしく生きたい。

そんな風に素直に思えた。


そして復職を迎え、今に至る。

朝、お弁当を作り、決まった時間に電車に乗り、会社へ行く。

人との会話など、前までなんでもなかったようなことが、とてもありがたく楽しく感じられた。

慣れるまで体はクタクタ、だが、達成感や充実感がそこにはあった。

日々、小さな幸せをたくさん見つけられる自分がいた。

生きてるって楽しい。


病気になり、人の優しさ、温かみを教えられた。


『長い人生なんだからちょっとくらい寄り道して、休んでもいい』


母が言ってくれた言葉だ。

胸に沁み、とても励まされた。

休むことは権利でもある。


気持ちが落ちついてくると休職に対して、若干の罪悪感も出てきた。

だが、私にとって必要な休息な時間だったのだと思う。

ひょっとしたら適応障害とパニック発作は私に与えられたギフトなのかもしれない。これから先の生きる為のきっかけ、道標。

素直にそう思える自分が嬉しい。

まだ寛解状態ではなく、ときどき症状に悩まされることもある。

だが、その都度自分の気持ちに向き合うようにしていている。

もしかしたら一生の付き合いになるかもしれない。病気のことを拒絶しても逃げても何も変わらない。これも私だと受け入れたらだいぶ気持ちも軽くなった。

自分なりの対処法を見つけ出し自分らしく生きていく。

今、私には目標がある、今後私と同じようにメンタルで悩んでる人達の力になりたい。

人に話を聴く。コミュニケーションで最も大切だと言われる傾聴。

この傾聴について深く学び、少しでも誰かの役に立ちたい。

合せてメンタルヘルスについても学んでいる。

そして自分の体験を誰かに伝えたいのでエッセイを書いている。

自分がしてもらって嬉しかったこと、励まされたことを今度は自分が誰かに返していきたい。

人生に無駄なことなんて何一つないから。

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