第2話

 もちろん、そのようなことは聞いてはおりません。


 ただまあ、わたくしもだてに長年、山中林太郎の妹をしていた訳ではございません。

 急にお相手の方と会うことになる程度では動揺したりはいたしません。

「わかりました」と諦めつつ頷き、了承いたしました。

「レッスンが終わった後に、お会いすればよろしいのですね。

 でしたら、いつもの喫茶店……」

 そこまで言ったところで、「何を勘違いしておる」と兄はそれを打ち消したのでござます。

「わしはレッスンに行くと言ったのじゃ。

 お前もそれを受けるって事じゃ」

 これには、わたくしもうまく返すことが出来ませんでした。

「受ける……?

 わたくしに踊れと言うのですか?

 この年になって、ダンスを……」

「その通りじゃ!

 なかなか、よいぞ!」

と、兄は楽しげに携帯を操作しました。

 そして、わたくしの前に画面を突き出しました。

「これが、ストリートダンスじゃ。

 ナウイじゃろう」

 ――そこで行われているものは、ナウイなどという生やさしいもので表現できるものではございませんでした。

 画面に映っているのは、なぜだかヘルメットをかぶった男の子が数人で、床に円を書くように跳ねておりました。

 そして、しばらくすると、一人の子が円の中央に入りました。

 そこで、突然、床に頭を付けると、駒のように回り出しました。

 それだけでも、仰天したのですが、まだ終わりません。

 足を振り回しながら背中や腕でくるくる回ったり、片手で逆立ちをしながらぴょんぴょん跳ねたり。

 そうかと思えば、おもいっきり飛び上がったかと思いきや、床に背中から落ちて、さらに跳ね上がりポーズを取るというものもございました。


 見ているだけで、長年煩ってきた腰が痛くなりました。


 若い子ならいざ知らず、七十過ぎのお婆ちゃんがこのようなことをさせられたら、体が粉々になってしまいます。

 恐らく真っ青な顔をしていたことでしょう、わたくしなどお構いなしに、兄は自慢げな顔で続けます。

「まあ、ここにいる輩は二段と言った所じゃろう。

 口惜しいが、初段であるわしは、まだこの域には達しておらん。

 もうちょっとで追いつくのじゃがなぁ」

 そのようなこと、とても信じられません。

 明らかに、二ヶ月やそこらで追いつけるレベルではございませんから。

 ただ、わたくしはそのことについて、どうこう言っている状態ではなく、自分がどんなことをさせられるのか、そればかりでございました。


 わたくしは、心の底から許しを乞いました。


「兄様、ご勘弁ください。

 この年でこのような踊りなど、考えただけで、心臓が止まりそうになります」

「やる前から何をいっておる!

 情けない奴め」

などと言っている兄に、わたくしは重ねて言いました。

「無理でございます!

 そもそも、嫁になる方を紹介して頂くだけなら、わざわざレッスンを受ける必要など無いではありませんか?」


 無論、一度言い出したら、岩にしがみつくかごとく態度で譲らない方でございます。


 どのような理不尽千万な事を言い出すのかと構えておりました。

 ただ、兄は珍しくも少し言いにくそうな顔で頭を掻いておりました。

「まだ、その段階には至ってはおらん」

「はぁ?

 その段階とは?」

とわたくしが訊ねると、兄はむっとした顔で言いました。

「いずれ嫁になることは確かなれど、まだ、その段階には達しておらぬ、と言う事じゃ!

 だから、お前はわしの助けをするために、レッスンを受けろと言っておるではないか!」


 またしても、ではありますが、そのような話は聞いてはおりません。


 ただ、冷静に考えてみれば、わかりそうなことではございました。

 四十代後半の聡子姫にすら、年が離れすぎていると断られていたのに、十八、九歳の娘さんが簡単に婚姻を了承するとは思えません。

 本人もそうですが、当然親御さんもでございます。

 ただ、兄が嫁だ嫁だと言うものですから、ついついそのように思いこんでしまったのでございます。

「つまり、兄様はわたくしを”し”にしようというのでございますか?」

と、多分に嫌みを込めたのでございますが、兄はようやく分かったかと言わんばかりに頷き、

「その通りじゃ。

 お前はよい出し汁になるからのう」

などと言っておりました。


 どうしようもない兄でございます。


 ただ、事が事だけに、ハイそうですかとは行きません。

「兄様、後生でございますから、レッスンはお一人でお願いいたします。

 ただでさえ、梅雨時で腰が痛む上に、ダンスなど、下手をすると歩けなくなってしまいます」

「何じゃ、何じゃ、桜子や」

と、兄はだだをこね始めました。

「わしがかの大戦中に、B29爆撃機から守ってやらなければ、歩け無いどころか、生き延びたかすらわからない身で、この兄の、切なる、切実なる頼みを、無下に断るつもりか?」


 困ったものでございます。


 いくつになっても、何十年も昔の話を引き合いに出してまいります。

 そもそも、いつも自慢げに話す戦中の美談の大半は、嘘とまでは申しませんが、大げさであったり、妄想妄言が織り交ぜられたりして作られたものばかりでございます。


 爆撃機うんぬんに関してもそうでございます。


 兄が話す内容の大筋としては以下のようなものでございます。

 疎開先の村で、突然の空襲に多くの者が逃げまどっていた。

 山中兄妹は、賢き兄の機転で道を外れ、林へと逃げ込んだ。

 このまま、大人達の後に続いたら危険だと判断したからだ。

 それは正しいことはすぐに証明された。

 村の皆が逃げ込んだ山寺から火の手が上がったのだ。

 いったいその場で幾人が命を落としたことか。

 もし、自分らもあそこに行っていたなら、恐らく命はなかっただろう。

 怯える妹を抱き抱えながら、兄は黙ってそれを睨み付けた。


 ……まるで、英雄譚のごとき物言いでございます。


 このような話を、物々しく話すものですから、お人の良い方などは、ころっと騙されてしまうのでございます。


 ただ、実際の所はそうではありません。


 そもそも、空襲など無かったのでございます。


 なので、その時、亡くなった方もいらっしゃいませんでした。

 確かに、空襲警報が出され、わたくし達は防空壕へと避難することになりました。

 その途中、兄はわたくしを横道に引っ張りこんだのは間違いありません。

 ただ、その理由は『予感』などという結構なものではございませんでした。

 兄は「こちらの方が近道に違いない」という思いつきで、わたくしを巻き込んだのでございます。


 なにぶん、幼かったこともございます。


 また、疎開先ゆえに勝手が分からぬ上に、日が暮れた頃にございます。


 あっという間に、迷子になってしまいました。


 空襲警報が鳴り響き、辺りは薄暗く、わたくしはすっかり怯えてしまいました。

「兄様、元来た道に戻りましょう」

と必死で訴えたものです。

 しかし、当時十歳といえども、そこは山中林太郎でございます。

「こっちが近道のはずだ!

 黙って付いて来い」

と言って聞きません。

 そして、しばらく歩いた後に、道沿いの林の中で転がったかと思うと、

「もうよく分からんから寝る」

と言い出したではありませんか。

「兄様、兄様」と必死で起こしても、何も答えず、呆れたことに本当に寝てしまったのでございます。

 まだ、空襲警報が鳴りやまない中でございます。

 所々で、どなたかの怒鳴り声が聞こえ、誰もが必死に逃げている時でございます。

 空爆ではなく、火の不始末で燃え上がる建物が遠くに見える中でございます。

 ……わたくしには、兄の話す与太話よりもよほどの武勇伝に思えてなりません。

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