第3話

 結局、わたくしは『ストリートダンス』の教室に無理矢理連れて行かれました。


 そして、文化センターの一室で初めて兄の思い人、真美先生にお会いしました。

 わたくしらを見かけた先生は駆け寄ってきてくださり、

「初めまして、真美と言いますぅ。

 林太郎さん、マジで妹さん連れてくるんだもん、びっくりしたぁ」

と、大声で笑っていらっしゃいました。

 それに対して、「自慢の妹じゃ!」と兄は低い背丈を必死で伸ばし、誇らしげにしておりました。

 兄はいくつになっても、わたくしを紹介する時には「自慢の妹」と言うものですから、恥ずかしくて仕方がありません。

 しかもその時は、真美先生も

「うんうん、自慢したくなるの分かる!

 上品でかわいいお婆ちゃんだ!」

とおっしゃるので、顔が熱くて仕方がなく、穴があったら入りたくなるほどでございました。


 真美先生は、薄茶色の短い髪で、化粧も濃く、服装がやはりチグハグで、とても上品なご令嬢とは言えない方でございました。


 ただ、そんな姿形とは裏腹に、わたくしのために座布団を椅子に敷いてくださったりと細かに気配りの出来る、感じの良い娘さんでございました。

 孫にいると楽しいだろうなと思いましたが、義理の姉にはやはり若すぎました。

「じゃあ、始めまぁす!」

 真美先生が大鏡の前に立ち、兄を含む生徒さんらに声をかけました。

 そして、一つずつ丁寧に、ダンスの動きをご説明されていました。

 兄ほどではないにしても、大半が四十代でしょうか? 思ったよりも年齢が高めの方が多くいらっしゃいました。

 そして、男性よりも女性の割合が高く、そのためかもしれませんが、兄が携帯で見せてたものに比べて、随分大人しめな感じの踊りでございました。

 それでもまあ、七十代のお婆ちゃんがするには激しすぎますし、初段を自称しておりました兄にしても、ハアハアゼイゼイ言いながら、ダンスなのかドジョウ掬いなのか分からぬ動きをしておりました。

 それなのに、先生の真後ろに陣取り、懸命にアピールする姿は微笑ましい光景でございました。

 兄とて膝を痛めておりますし、腰も一度悪くしております。

 それでも、無理を承知で恋を成就させようとする姿勢は凄い事だと思いました。


 その時、ふと思い浮かんだのは、わたくしが真美先生と同じぐらい頃、女学校時代の恩師とダンスホールで踊った時の事でございます。


 あのような場所に行くのはお互いに最初で、わたくしにとっては、最後のことでございました。

 多くの若者がごった返す中、拡声器が陽気な歌声を広げる踊り場に、既に卒業した女学校の同窓生らと先生とで、なぜだか入ることになってしまったのでございます。

 そして、友人らのいたずらによって、わたくしと先生は踊り場の中央に押しやられてしまったのでございます。


 わたくし達は大いに焦りました。


 このようなところとは全く無縁の生活をしてきた二人でございます。

 それでも、素朴でおしゃれっ気のない先生が、わたくしのために必死に踊ってくださいました。

 何とか形にしようと、がちがちに固まった体で必死になってくだったのでございますよ。

 それが本当に嬉しかったのでございます。

 格好のよい絵ではございませんでした。

 周りにいる人たちからも、くすくす笑われた有様でした。

 それでも、むしろその不格好さが、愛しく思えたのでございます。


 その時、兄と真美先生ほどではないですが、十ほど年離れたその方に恋をしてしまいました。


 あれも、今の兄と同じでございました。

 わたくしが勝手に抱いていただけの、ちっぽけな恋でございました。

 そして、許されない恋でもございました。

 家のことを考えると、家柄のことを考えると、わたくしは諦めざる得なかったのでございます。

 兄は「本当に良いのか? 桜子はそれで本当によいのか?」と何度も訊ねてきました。


 その時のわたくしは、ただただ、頷くだけでした。


 あの時、兄の何分の一かでも無茶をする勇気があったのならば、あの恋はどういう結末を迎えたのでしょうか?

 今は亡き夫に悪いと思いつつも、わたくしはそう思わずにはいられませんでした。


 詮無きことと思いつつもです。



 レッスンが終わり、質問をする生徒さんに交じり、兄は必死に真美先生に話しかけておりました。

 恐らくは元気なおじいちゃんとしか思われていない我が兄ではあります。


 ただ、それも愛おしく感じました。


 と、突然、騒がしくなりました。

 視線を移すと、教室の入り口付近に若くて背の高い男の子が立っていました。

 背だけでは無く、がっちりした体格の若者で、真美先生と同じようなダボリとした服を着ておりました。

 それを見た四十代の、恐らく主婦の皆様方が真美先生に「彼氏? 彼氏なの?」と楽しそうに訊ねていらっしゃいます。

 先生は年相応に愛らしくはにかみ、男の子の方をちらちら見ていらっしゃって、とても微笑ましい光景でございました。

 ですが、それを良しとしないお人が、もちろん我が兄、山中林太郎でございます。

 険しい表情で真美先生とその想い人である男の子を交互に見ておりました。

 何かしでかすのではないかという危うさを感じ、わたくしは立ち上がり、慌てて兄の方に向かいました。


 しかし、時すでに遅しにございました。


「お前が真美と付き合うなんざ! わしがゆるさぁん!」

と怒鳴り始めました。

「ちょ、林太郎さん」

と、真美先生が止めに入ったのですが、「どいておれ!」とどかし、ずかずかとその若者の前に立ちました。

 そして、キィ! と見上げると、歌舞伎の見栄でも切るかのように、

「お前のようなぁ、貧弱ものにぃは、真美はやれんわぁ」

などと、言い出したのでございます。

 はじめはあまりの展開に、呆然とした顔で見守っていた他の生徒の方々でしたが、しばらくすると、必死で笑いをこらえるように口に手を当て、肩を振るわせ始めました。


 わたくしはもう、恥ずかしくて顔を両手で覆いました。


 山のように大きな若者に向かって、矮小な老人が貧弱はないでしょうに。

 真美先生はどうしてよいのか分からないと言う顔をされていますし、その恋仲の若者も余りにも突然の事態に、ポカンとされておりました。


 本当に申し訳ないことにございます。


 しかし、兄はそういう空気を読めない方にございます。


 何も言わない若者が怖じ気付いたとでも思ったのか、

「そうではないというならぁ、かかって来るがぁよい!」

と、両手を前に突き出しました。

「猪熊先生の再来とまで呼ばれた、このわしの柔道でちぎっては投げ、ちぎっては投げて、年期の違いってものを、あぁ、教えてやろうじゃねえかぁぁぁ」

 わたくしの知る限り、兄が柔道をしていたのは十歳前後の頃のみで、学校でも多少は習っていたかもしれませんが、五十歳近くの年齢差と、何倍もありそうな体格差をどうにかできるほどのものとは到底、思えません。

「兄様、やめてください兄様!」

とわたくしが必死で止めると、真美さんも、「林太郎さん、とにかく落ち着いて!」と必死で宥めておりました。

 しかし、先生の恋人さんが困った顔をしてるだけで、何も言い返さないのをいい事に、「さあこい! さあこい!」と奇妙な足運びでちょこまかと動き回っておりました。


「あ、あのう」

と、真美先生の恋人は意を決したよう表情で兄を見ました。


「俺、柔道三段なんだ……」

 兄の動きがピタリと止まりました。

 真美先生の恋人は本当に、本当に申し訳なさそうな顔で、「ごめんね」となぜだか謝罪されていました。

 体つきは大きくて、髪も染めている若者ではありますが、どうやら、穏やかな性格をしているようでした。

 固まっていた兄は、突然、大声で笑い始めました。

 そして、先生の恋人の肩を叩き、「真美はお前に任せた」とえらそうにのたまりました。


 必死で笑いをこらえていた生徒さんらがどっと笑い出し、わたくしも恥ずかしく思いつつも、それでもやはり、笑ってしまいました。


「なにそれ、林太郎さん! めっちゃ、笑えるじゃん!」

と、真美先生も兄の背中をたたきながら大笑いをしていらっしゃいました。



 帰り道にわたくしが、「感じの良い若者でしたね」と話を振りますと、背筋を懸命にのばし、大股で歩く兄はすました顔で、

「わしはまだまだ真美のことを、あきらめておらんからな!」

などと、言っておりました。

 この老人はなぜ、ここまで元気なのかあきれてしまうと同時に、うらやましくもありました。

 わたくしも、少し無茶をしたら、短くなった人生ではございますが、兄のように無謀と知りつつも飛び込んでいく勇気が持てたなら、どのような明日が待っているのでしょうか?

 そのようなことを考え始めたら、何だか楽しくなって参りました。


 そこで、「わたくしも素敵な方を探そうかと思います」と告げてみました。


 兄は少し驚いた顔を見せましたが、すぐにカッカと笑いました。

 そして、急に真顔になり

「お前を貰う者は、まず、わしを倒さねばならぬ!」

など言っておりました。


 わたくしは、心のそこから笑ったものです。

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老兄、林太郎の恋 人紀 @hitonori

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