老兄、林太郎の恋

人紀

第1話

 今は亡き兄、林太郎りんたろうは、とにかく、落ち着きのないお人でございました。


 東に行けば惚れた腫れたの大騒ぎ。

 西に行けばやれ喧嘩だ祭りだの大暴れ。

 無鉄砲であり、一本槍であり、人の迷惑を考えず―――どころか、わたくしなどを積極的に巻き込んで、がむしゃらに行動するお人でございました。

 それでいて、気づいた時には全て無かったかのようにしらっとした顔で、「そんなことよりも、桜子……」と新たな厄介事を持ち出してくるのでございますよ。

 でもまあ、憎めないと申しますか、何となく、許してしまうと申しますか。


 そういう、お人柄でございました。


 そんな兄が、あの世にふらりと出かけて一年が過ぎました。

 人に勧められて始めた兄との思い出を書き出す作業も、その中で、故人を偲ぶ日々にも、少しは慣れて参りました。


 とにかく、逸話に事欠かないお人でございます。


 悲しいはずが、寂しいはずが、どうしても、口元が緩んでしまうのでございます。

 それらの中で、今回は兄の晩年に起きたドタバタをご紹介したいと思います。


 我が兄、山中やまなか 林太郎りんたろうが74歳の頃のお話でございます。


 その四年前に妻を亡くし、一つ年下の妹、つまり、わたくしの住むマンションに越して来ておりました。


 名目上は夫を亡くしたわたくしの面倒をみるために。

 実際は、わたくしに面倒をみさせるために、といった所でしょうか。


 とはいえ、助かっていた部分もございます。


 子供らと離れた年寄りの一人暮らし。

 ともすれば、小さく縮こまったまま日々を過ごし、ただただ、お迎えを待つだけの生活になりかねません。

 それを、無遠慮にやって来ては問題事に巻き込んで行く、あの元気旺盛なご老人が近くにいるだけで、気づくと持病の腰痛も忘れるほどの忙しくも充実した毎日を送ることになったのでございます。


 そう、あれは梅雨の時分でございました。


 ベランダを叩く雨音を聞きながら、ダイニングキッチンのテーブルで熱いお茶を飲みつつ、拙い俳句をひねりだしていた時にございます。

 そこへ、玄関のドアを乱暴に開きつつ、何やらまじめくさった顔の兄がズカズカと入って来て、わたくしの前の椅子にドカンと座ったのでございます。

 そして、芝居かかった調子で、

「わたくし、山中林太郎はぁ、嫁を貰うことになりそうろう」

などと言い出したのでございます。

「嫁、でございますか?」

とわたくしが確認すると、小柄な体を懸命に伸ばし、尊大な体で頷いてみせました。

 わたくしは、どうにも呆れてしまいました。

「聡子姫は諦めたのではなかったのですか?」


 聡子姫とはあまりメジャーではありませんがプロの演歌歌手で、一時期、兄が熱を入れていたお方でございます。


 その時の入れ込み様は凄まじく、コンサート会場でのプロポーズなど、ファンの立場を逸脱した暴走を繰返し、自分以外の人間を振り回しておりました。

 その果てに、聡子姫とその関係者の方々を前にして

「わたくし、山中林太郎、聡子のことは諦めもうした」

と土下座したのがその半月前のことでございました。


 そんな経緯のある兄ではありましたが、「そんなぁ、捨てたぁ女のぉ、事でわないぃ」などと、妙な節を付けて言ったものでございます。


「ついにわしは、二番目の伴侶を見つけたのじゃ!」

「はあ」とやや呆れつつも頷くと、わたくしのその反応が気にくわなかったのか、兄はムッとした顔になりました。

 そして、首に掛けていた携帯電話を操作し始めました。

 そんな兄を眺めつつ、実はその時、嫁を貰う事自体は、別段悪い事ではないと思っておりました。

 むしろ、七十を超えてからの決断に感心しておりました。

 よほどのことがない限り、祝福しようとその時は思っておりました。

 そこへ、「これが、その女だ」と兄はどうだと言わんばかりに、携帯電話の画面を向けてきました。

 わたくしは、老眼鏡を掛けると、心を弾ませながら姉になるかもしれない女性を見ました。


 そこには、奇怪な格好をした女性、というよりも、女の子がにこやかに立っておりました。


 なにが奇怪かと言いますと、まず第一に服のサイズが上下共に明らかに大きすぎる所でしょうか。

 細身と思われる女の子が、大男でちょうどよさげな服を身につける様は、娘が小さい頃にした悪戯を思い出させます。

 また、シャツをだらしなく出していたり、何故だか、片方の足だけ裾を上げていたりと寝起きしたばかりのような姿で、ポーズを取っておりました。

 大道芸人の類いかしら? というのがわたくしの所感でございました。

「どうじゃ? えぇ女じゃろう?」

と、期待に満ちた目で訊ねてくる兄に、わたくしは苦笑いをしつつ、

「兄様、えらく若い娘さんが写っているようですが」

と答えました。

「そりゃそうじゃ」と兄は何やら偉そうな顔で胸を張りました。

「まだ、十八歳だからな」

「え……?」

 絶句してしまいました。

「十八……。

 本当に、この娘さんが……」

 兄は満面の笑みで答えます。

「我が妻になる女だ」

 開いた口がふさがらない、という文章表現がございます。

 その時のわたくしは、まさにその通りの表情で兄を見ておりました。

「兄様、そのぉ」と言葉にしましたが、どこからどう指摘すれば良いのか、分かりませんでした。


 余りにも若すぎる?


 おかしな格好をしている?


 正直、悩みました。

「どうじゃ?」と再度訊ねてきたので、とりあえず、

「……変わった格好をされていますが、何をされている方なのですか?」

と訊ねてみました。

 すると、兄は偉そうな顔をしつつ、

「”すとりーとだんす”じゃ。

 米国の踊り、”ひっぷとほっぷ”じゃよ。

 格好が変わっとると言うが、これがナウイのじゃ。

 まあ、洒落っ気のない桜子には分からんかも知れんがのう」

と答えました。


 後に聞いた話ではございますが、『ストリートダンス』とはアメリカの若者らが路上での遊びなどから作り上げたダンスで、ヒップホップとは、その一ジャンルの事だそうです。

 格好が良いと評判で、おしゃれな若者がこぞって練習をしていているらしく、兄がナウイと言ったのはそういう所から来たのでしょう。

 しかし、その時のわたくしにはちんぷんかんぷんなもので、

(ストリートダンス?

 よさこいの様なものかしら?)

などと考えておりました。

 ならば、珍妙な格好にも納得できるってものです。

 兄は話を続けます。

「真美は文化センターでレッスンを受け持っておるのじゃ。

 初めて出会ったのは四月のことじゃったよ。

 その時はすれ違っただけだが、それでもすぐに分かるものじゃ。

 ……運命の相手というものはな」


 困った兄でございます。


 十代の若者ならいざ知らず、酸いも甘いも噛み分けるはずの七十代が、運命の出会いなどとは。

 そもそも、聡子姫の時も、その前の時も、同じようなことを言っておりました。

 そろそろ、何かしらを学んでも良い頃ではと思ってしまうのも、無理無きことでございます。

 でも、そんなわたくしの心情など察することもなく、

「それ以来、真美のレッスンに通っておる。

 二ヶ月ほどになるかのう。

 まあ、武道で言えば、初段の腕前じゃな」

と自慢げに言っておりました。

 わたくしはため息を漏らしつつ、はっきりと伝えました。

「兄様、今回のことは賛成しかねます」

「なんじゃと!」と怒鳴る兄に対して、

「いくら何でも若すぎます。

 ご自分の孫、どころかひ孫の鈴ちゃんのほうが年が近いではありませんか?」

 鈴ちゃんは、兄の最愛のひ孫で、その時、十三歳でございました。

 目に入れても痛くないとばかりに激愛しているひ孫娘を引き合いに出せば、考え直して貰えると思ったのですが、

「恋愛に年齢を持ち出すたぁ、野暮なことをぉ」

などと言って、聞く耳を持ちません。

 そして、さらに続けようとすると、

「ああうるさい!」と兄はついに怒り出してしまいました。

 そして、立ち上がるとわめき始めました。

「ぐだぐだ言ってないで、さっさと支度をせんか!

 動きやすい服装と手ぬぐいは必須じゃぞ」

「支度、でございますか?

 何の支度でございますか?」

と訊ねるわたくしに、兄はボケでも進行したのかと言わんばかりのあきれ顔で、

「桜子、桜子や、何を言っておる。

 今から、真美のレッスンに行くって言ったじゃろう」

と当然のことのように言い切ったのでございます。

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